ライブラリー キャラメルラテ

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アレキサンドライトの輝き

 ジェームスは母アイダと二人で暮らしていた。二人の住む借家は外観も質素だった。路地に面した部屋の窓には古びたカーテンが引かれ、年季の入った木製の玄関ドアの脇には、黄色いフリージアの鉢植えが置かれていた。この日の午後六時前に仕事から帰宅したジェームスは、真っ先にアイダの寝室に向かった。

「母さん、具合はどう?」「おかえり、ジェームス、寒かったでしょう。今日は大分いいわ」

 ベッドに横になっていたアイダは、そう言ってゆっくりと上体を起こした。

「クリームシチュー作ってあるわよ」

「あんまり無理するなよ、体に障(さわ)るぞ」

「一日寝ているわけにいかないもの。あなたが働いてくれているのに」

「今の仕事は、前よりずっと楽なんだ。今日は朝から店内の掃除と商品棚の整理、午後から近所に配達を五軒。普段より早めに上がれたしさ……」

 一通り話し終えたジェームスは殺風景な台所に足を踏み入れた。テーブルに使い込まれた銀製の大鍋が置かれており、蓋を開けた瞬間に立ち上る湯気に、ジェームスの空腹は頂点に達した。あっという間にシチューをたいらげたジェームスは、食器棚の空きスペースに置かれた薬の袋に目を留めた。アイダは肺を病み、ここ一年ほど寝込みがちなのだ。

 町の中心部に行けば評判のいい診療所がある。母さんを診てもらうためにも、働いて治療費を工面しないと。ジェームスは決意を新たにした。

 ここは、カームリバーと呼ばれる町の郊外に位置する、やや寂れた地域だ。周辺には小さな家々が建ち並び、路地を抜けて開けた大通りに出ると、市場や商店が軒を連ねる。ジェームスの今の仕事は、食料品店の下働きだ。それより前は煙突掃除の仕事を三年近く続けていた。

 あの頃はいつも煤まみれになっていたものだ。ふと思い出したジェームスは苦笑いを浮かべた。それから食器洗いを終えたジェームスは、二階の自室に上がった。

 ベッドの枕元に、一冊の本がある。架空の国を舞台に、龍族の末裔と手を組み、魔王の討伐に挑む若き騎士の活躍を描いた長編小説だ。ヘッドボードに並ぶのは冒険小説や伝記小説、実用書が数冊ずつ。父の愛読書も混ざっているが、どれもジェームスには思い入れのあるものばかりだ。ジェームスとアイダは元々四人家族だった。今は母子二人で暮らしているのはなぜかというと、話を四年前に遡るーー。

 

 カームリバーから少し離れた地方の自然豊かな町。キャメロン・サーティスは富裕な農場主で、町の名士だった。三十代で娶(めと)った妻モリーとの間に、一人娘ケイティをもうけた。ケイティは両親の愛情を一身に受け、一家は幸せに暮らしていた。

 ところがケイティが六歳の誕生日を迎えたばかりのある日、モリーが事故で命を落としたのだ。キャメロンは悲嘆に暮れたが、一年後、若い女性と再婚した。その女性こそがジェームスの母、アイダである。翌年、誕生したジェームスはキャメロンのミドルネームを名付けられ、大切に育てられた。

 だが、そんな暮らしも長くは続かなかった。ジェームスが大学一年目を終える頃、十九歳の時だった。キャメロンが町の集まりに出ている最中に倒れ、急死したのは。それ以来、母子の暮らしは大きく変わった。

「久しぶりね」

 その頃には二十七歳になり、とうに実家を出ていたケイティが二人の前に現れた。聞くところによると、一家で暮らしていた家も農場の権利も何もかも売ってしまったという。

「どういうことなんだ、姉さん。どうしてそんな勝手な真似を……」

「あなたに姉さんなんて、呼ばれる筋合いないわ」

 ケイティの目が鋭く光った。異腹の姉弟だが、二人は目元がよく似ている。見る者に力強さを感じさせる、キャメロンに瓜二つの黒い瞳が。

「父さんが亡くなったばかりなんだよ」

「ケイティ……」

「私はずっと、あなたたちが嫌いだった。特にジェームス。あなたが生まれてから、父さんの関心はすっかりあなたに向けられて。私は追い出されるように寄宿学校に入ったのよ。それに今回も、父さんの急死を知らされたのは、私が最後。どれだけ屈辱だったか……」

 ケイティの両手は震えていた。

「ご存知ない? 成人した長子の私に権利があるのを。財産をどうしようと私の勝手よ」

 ジェームスとアイダは何も言えなかった。こうして二人は追われるようにカームリバーにやってきた。二人に遺された遺産は、僅かばかりの現金のみ。ジェームスは大学を辞め、町に働きに出るようになった。経営学を専攻し、卒業後は実家の農場経営を手伝うつもりだったジェームスは、初めにありついた煙突掃除の仕事に嫌気がさすこともあった。今の勤め先の店主は気さくだが、仕事は商品の陳列や配達ばかり。待遇面でも不満を感じつつあったジェームスはアイダを療養所に預け、町を出たのだったーー。

 

 私の名前はアレキサンドラ、宝石に由来する。私自身は、シンデレラに出てくるネズミも同然だけど。そんな私に彼は、広い世界を見せてくれるのだったーー。

 ここはカームリバーと隣町とを結ぶ橋を渡り、馬車で東の方角に向かうこと半日ほどかかる湖水地方。森を背に聳(そび)え立つ王宮が、どこよりも存在感を放つ。壁は真っ白で、三角形が三つ並ぶ赤い屋根の真ん中では、白と若葉色のストライプの国旗がはためく。前方には一面の芝生が広がり、四季折々の花が咲き乱れる花壇や水飛沫を上げる噴水がその一角を占め、広大な淡水湖を遠方に望む。

 王宮に住まうのは国を統治する国王夫妻と二人の王女だ。じきに十九歳になる長女アレキサンドラと、二歳下の二女サフィア。代々、王子や王女は十八歳になると本格的に公務に参加し、性別に関わらず第一子が王位を継承する慣わしとなっている。

 この日、国王のマーシャルは隣国の大使夫妻を晩餐会に招いていた。午後、特注のネイビーブルーのドレスに袖を通したアレキサンドラは、自室で姿見の前に立っていた。そこに映るのはストレートの長い黒髪、痩せぎすで比較的長身、顔立ちは平凡そのものの女性だった。

 アレキサンドラは晩餐会が億劫だった。襟元にフリルのあしらわれたロングドレスも、雨粒のような形をしたピンクのトルマリンが散りばめられたティアラも、妹のサフィアならよく似合うだろう。ダークブラウンの自然に波打つ長い髪、同じ色の潤んだように見える瞳、ふっくらした弓形の唇の持ち主のサフィアなら。

 王宮二階の大広間で開かれる晩餐会の間、アレキサンドラは両親やサフィアと共に、大使夫妻に笑顔で接していた。自分より小柄なサフィアと並んだ時に感じる劣等感など、胸の奥に仕舞い込んで。その矢先、ジェームスが彼女の前に現れるのだ。カームリバーで煙突掃除の経験があり、王宮の掃除人として雇われたという。メイドたちが噂話に花を咲かせていた。若い男性が王宮にやってくると聞いたアレキサンドラは、少々憂鬱だった。恐らく彼も、自分とサフィアを比べるだろうという考えが頭をよぎったのだ。

 数日後、ジェームスが王宮にやってくる日。その姿を一目見たアレキサンドラの胸は高鳴った。一七〇センチ台半ばのマーシャルをゆうに超える長身、黒い革のジャンパーに白いシャツ、ジーパンというラフな服装の上からでも窺える、鍛えられた肉体。やや長めの黒髪、くっきりした黒い眉に力強い黒い瞳。専属の家庭教師に勉強を教わり、今もほとんどの時間を王宮で過ごすアレキサンドラが滅多に目にしない、野性味を帯びた美男子だった。

 年配の執事と廊下で立ち話をしていジェームスに目を奪われたアレキサンドラは、暫くしてハッと我に返った。彼女の視線に気づいたジェームスが会釈をすると、アレキサンドラは顔をパッと逸らし、その場から小走りで去っていった。

 この夜、アレキサンドラはベッドに潜り込んだきり、中々寝つけなかった。空気がひんやりするにも関わらず、頬が熱く火照るのがわかる。瞼を閉じれば、出会ったばかりのジェームスの顔が繰り返し脳裏にチラつく。これまでは童話や小説に出てくる海賊やカウボーイに憧れを抱き、理想の男性像として密かに思い描いていた。だが出会ったばかりのジェームスは、それらとは比べものにならないくらいの存在感を放っていた。この時のアレキサンドラはすっかり戸惑い、人知れず芽生えた感情を持て余しつつ、日々を過ごすのだった。

 ジェームスの王宮での評判は上々だった。アレキサンドラはメイドから話を聞くか、遠目に彼を見かけて知るくらいだったが。

 ある夜のこと。

「王女」

 仕事を終えたジェームスが、廊下にいたアレキサンドラを呼び止めた。

「アレキサンドラでいいわ」

 アレキサンドラは俯き加減で、少し間を置いてから答えた。彼女はゆくゆくは女王となる身なんだ。好印象を抱かせるのは得策といえるだろう。そうした考えを、ジェームスは瞬時に頭に巡らせた。

「もしかして、アレキサンドライトから?」

「ええ」

「素敵な名前だ」

「ありがとう……」

 アレキサンドライトーー。神のいたずらと称される神秘的な宝石。その希少性はダイヤモンドに類する。名前を褒められるのはよくあること。ただし、その後が続かないのだ。

「そういや、宝石店のウィンドウ越しに一度見たことあるな。指輪だかネックレスだか。光を受けて色が変わる、何とも魅惑的な宝石だった」

 ジェームスの物憂げな口調に、アレキサンドラは恐る恐る警戒心を解いた。

「それじゃお分かりでしょうね、妹のサフィアも宝石から名付けられたのを。でもあの娘は、サファイアよりルビーの方が好きみたいで」

 ジェームスが柔らかな笑みを浮かべ、アレキサンドラが下を向くまでの一瞬だったが、二人は顔と顔を見合わせた。この夜、二人が交わした会話はこれだけ。雲間から三日月が、王宮と周囲の青々とした草原を照らす、そんな夜だったーー。

 

 それから二人は、時々話をするようになった。アレキサンドラは王宮での出来事や家族の話を、ジェームスは仕事の話やカームリバーにいた頃の話など。お互い、住む世界が違うのを意識しながら。

 ジェームスはというと日に日に、アレキサンドラと顔を合わせる度、不思議な気持ちに駆られた。初対面では、彼女の身分に興味を引かれたくらいだったが、話をするうちに親しみやすさに気づいた。容姿については妹に引け目を感じているというが、ジェームスは気にならなかった。これまでジェームスにとって身近な女性といえば穏やかな母アイダと、異腹の姉ケイティ。ケイティが寄宿学校に入学した時、ジェームスは四歳だった。長期休みには帰省していたが、近寄り難い存在だったことは覚えている。大学生の時にキャメロンが亡くなってゴタゴタが続いたこともあり、女性と付き合うどころではなかったといってもいい。

 ジェームスが王宮にやってきてひと月半。寒さも幾分和らぎ、よく晴れた休日の昼下り。アレキサンドラは庭の芝生に寝そべっていたジェームスを、誰もいない裏庭の木陰に誘い出した。

「川沿いの町ね」

「そう、取り立てて何もない町だけどね。イースターの時期は、石畳の露地が賑やかだった。煤まみれになって煙突掃除をしていた頃は、てっぺんから景色を見渡すのが一番の息抜きだったんだ。地平線に沈む夕陽が川面に映えて、なんともいえないくらい鮮やかでね」

 以前、二人はこの話をしていた。その時のアレキサンドラの眼前には、日没時のカームリバーの光景が浮かんでくるようだった。

「その前は農場にいたんだ。というより、農場で生まれ育った。広大な農地を小作人が耕して、僕は敷地内で遊んで。家畜もたくさんいたな。世話を手伝ったりもしたよ」

「それからどうしたの? どうしてカームリバーに……」

「町の大学に通っていたけど、父の急死をきっかけに辞めた。母もカームリバーに来て働いていたけど、肺を病んで……。今は療養所にいるんだ」

 アレキサンドラは何も言わなかった。王宮で箱入り娘同然に育てられた身では、かける言葉が見つからなかった。

「仕事はキツかったけど、読書が楽しみだった。読書だけはずっと好きで、続けていたんだ」

「道理で博識だと思ったわ」

 畏敬の念が込められたアレキサンドラの物言いに、ジェームスは照れたような表情を見せた。

 二人の様子に警戒心を抱いたマーシャルは夕食の席でアレキサンドラに、国を統治する身分とはいかなるものか、こんこんと説いた。アレキサンドラは黙って聞いていたが、食事が済むとすぐに、苦い顔をするマーシャルを残して席を立った。

 大ホールを後にして廊下を歩いている途中、アレキサンドラはふいに思い出した。十五歳になるかならないかの頃、年配のメイドから聞いたある話を。マーシャルの母の妹の一人が許婚がいるにも関わらず、馬番の男と駆け落ちしたのだ。現在でもこの話は王宮のタブーだが、アレキサンドラはメイドから耳打ちされるように教えられた。当時はピンとこなかったが、眉間に皺を寄せたメイドの表情が印象的だった。

 ちょうどその頃、王宮の人気のない場所や裏庭の片隅で忍び会う二人に、複雑な目を向ける女性がいたーー。

 

 春の陽気が近づいてきたある日。アレキサンドラの部屋のドアをノックする音がした。返事とほぼ同時にサフィアが中に入り、ドアを素早く閉めた。

「サフィア、こんな時間にどうしたの?」

 ドアに背を向けていたアレキサンドラは、座椅子ごと振り向いた。

「あのさ、お姉ちゃん」

 サフィアは部屋の真ん中を陣取るベッドに、トランポリンで弾むように腰掛けた。

「私たち、王女なんだからおしとやかに、いずれは貞淑な女王になるようにって、周りに言われてきたじゃない?」

 アレキサンドラは両手を膝に置いて頷いた。

「覚えてる? 子どもの頃はよく、お城や庭で冒険したよね。一度は大きな木に登って、途中で落ちたこともあった。擦り傷で済んだけど、父さんはもうカンカンで……」

 屈託なく話すサフィアに、アレキサンドラは笑みを浮かべた。

「いくら王女といっても、一人の女でしょう。私、分かってるんだ。お姉ちゃんとあの掃除の男の人……。二人でいると、まるで恋人同士に見える」

 アイボリーのコットンの寝問着をベッドにふわりと広げて座るサフィアが、アレキサンドラにはこれまでのあどけなさが薄れて見えた。

「王宮のことは私に任せて、お姉ちゃんは自分の望むようにして」

「サフィア……」

 

 それから間もなく。

「もうあの男を城から追い出すしかない」

 マーシャルが側近相手に話しているのを、アレキサンドラは耳にした。今夜だわ、今夜しかない。アレキサンドラは決心したものの、気持ちは揺らいだ。部屋を見渡せば、ドレッサーに飾られた家族写真や、マーシャルから贈られた置き時計が目に付く。アレキサンドラの気持ちはなおも揺らいだ。次の瞬間、顔を見たこともない女性の影が浮かんだ。身分違いの恋に身を焦がしたであろう、マーシャルの叔母だ。馬番の男と手を取り合って王宮を逃げ出す場面まで、アレキサンドラの脳裏にありありと浮かんだ。

 時計の針が午前十二時を指す直前、アレキサンドラは自室をそっと抜け出し、ジェームスの部屋を訪ねた。

「私と一緒に逃げて下さい」

 その言葉を聞いたジェームスは眉を寄せた。次に何か言おうと口を開いたジェームスの視界に映ったのは、漆黒の闇夜を思わせるアレキサンドラの澄んだ瞳だった。

「喜んで」

 ジェームスは一言そう答えた。二人は王宮を出て広い庭を駆け抜け、ついに敷地の外へ出た。それから追っ手に見つからないよう、森の奥で一夜を明かすことにした。それから先は、また考えたらいい。きっとどうにかなるだろう、この手を離さなければ。アレキサンドラとジェームスは、繋いでいた手にグッと力を込めたのだったーー。