ライブラリー キャラメルラテ

オリジナル小説書いてます

アレキサンドライトの輝き

 ジェームスは母アイダと二人で暮らしていた。二人の住む借家は外観も質素だった。路地に面した部屋の窓には古びたカーテンが引かれ、年季の入った木製の玄関ドアの脇には、黄色いフリージアの鉢植えが置かれていた。この日の午後六時前に仕事から帰宅したジェームスは、真っ先にアイダの寝室に向かった。

「母さん、具合はどう?」「おかえり、ジェームス、寒かったでしょう。今日は大分いいわ」

 ベッドに横になっていたアイダは、そう言ってゆっくりと上体を起こした。

「クリームシチュー作ってあるわよ」

「あんまり無理するなよ、体に障(さわ)るぞ」

「一日寝ているわけにいかないもの。あなたが働いてくれているのに」

「今の仕事は、前よりずっと楽なんだ。今日は朝から店内の掃除と商品棚の整理、午後から近所に配達を五軒。普段より早めに上がれたしさ……」

 一通り話し終えたジェームスは殺風景な台所に足を踏み入れた。テーブルに使い込まれた銀製の大鍋が置かれており、蓋を開けた瞬間に立ち上る湯気に、ジェームスの空腹は頂点に達した。あっという間にシチューをたいらげたジェームスは、食器棚の空きスペースに置かれた薬の袋に目を留めた。アイダは肺を病み、ここ一年ほど寝込みがちなのだ。

 町の中心部に行けば評判のいい診療所がある。母さんを診てもらうためにも、働いて治療費を工面しないと。ジェームスは決意を新たにした。

 ここは、カームリバーと呼ばれる町の郊外に位置する、やや寂れた地域だ。周辺には小さな家々が建ち並び、路地を抜けて開けた大通りに出ると、市場や商店が軒を連ねる。ジェームスの今の仕事は、食料品店の下働きだ。それより前は煙突掃除の仕事を三年近く続けていた。

 あの頃はいつも煤まみれになっていたものだ。ふと思い出したジェームスは苦笑いを浮かべた。それから食器洗いを終えたジェームスは、二階の自室に上がった。

 ベッドの枕元に、一冊の本がある。架空の国を舞台に、龍族の末裔と手を組み、魔王の討伐に挑む若き騎士の活躍を描いた長編小説だ。ヘッドボードに並ぶのは冒険小説や伝記小説、実用書が数冊ずつ。父の愛読書も混ざっているが、どれもジェームスには思い入れのあるものばかりだ。ジェームスとアイダは元々四人家族だった。今は母子二人で暮らしているのはなぜかというと、話を四年前に遡るーー。

 

 カームリバーから少し離れた地方の自然豊かな町。キャメロン・サーティスは富裕な農場主で、町の名士だった。三十代で娶(めと)った妻モリーとの間に、一人娘ケイティをもうけた。ケイティは両親の愛情を一身に受け、一家は幸せに暮らしていた。

 ところがケイティが六歳の誕生日を迎えたばかりのある日、モリーが事故で命を落としたのだ。キャメロンは悲嘆に暮れたが、一年後、若い女性と再婚した。その女性こそがジェームスの母、アイダである。翌年、誕生したジェームスはキャメロンのミドルネームを名付けられ、大切に育てられた。

 だが、そんな暮らしも長くは続かなかった。ジェームスが大学一年目を終える頃、十九歳の時だった。キャメロンが町の集まりに出ている最中に倒れ、急死したのは。それ以来、母子の暮らしは大きく変わった。

「久しぶりね」

 その頃には二十七歳になり、とうに実家を出ていたケイティが二人の前に現れた。聞くところによると、一家で暮らしていた家も農場の権利も何もかも売ってしまったという。

「どういうことなんだ、姉さん。どうしてそんな勝手な真似を……」

「あなたに姉さんなんて、呼ばれる筋合いないわ」

 ケイティの目が鋭く光った。異腹の姉弟だが、二人は目元がよく似ている。見る者に力強さを感じさせる、キャメロンに瓜二つの黒い瞳が。

「父さんが亡くなったばかりなんだよ」

「ケイティ……」

「私はずっと、あなたたちが嫌いだった。特にジェームス。あなたが生まれてから、父さんの関心はすっかりあなたに向けられて。私は追い出されるように寄宿学校に入ったのよ。それに今回も、父さんの急死を知らされたのは、私が最後。どれだけ屈辱だったか……」

 ケイティの両手は震えていた。

「ご存知ない? 成人した長子の私に権利があるのを。財産をどうしようと私の勝手よ」

 ジェームスとアイダは何も言えなかった。こうして二人は追われるようにカームリバーにやってきた。二人に遺された遺産は、僅かばかりの現金のみ。ジェームスは大学を辞め、町に働きに出るようになった。経営学を専攻し、卒業後は実家の農場経営を手伝うつもりだったジェームスは、初めにありついた煙突掃除の仕事に嫌気がさすこともあった。今の勤め先の店主は気さくだが、仕事は商品の陳列や配達ばかり。待遇面でも不満を感じつつあったジェームスはアイダを療養所に預け、町を出たのだったーー。

 

 私の名前はアレキサンドラ、宝石に由来する。私自身は、シンデレラに出てくるネズミも同然だけど。そんな私に彼は、広い世界を見せてくれるのだったーー。

 ここはカームリバーと隣町とを結ぶ橋を渡り、馬車で東の方角に向かうこと半日ほどかかる湖水地方。森を背に聳(そび)え立つ王宮が、どこよりも存在感を放つ。壁は真っ白で、三角形が三つ並ぶ赤い屋根の真ん中では、白と若葉色のストライプの国旗がはためく。前方には一面の芝生が広がり、四季折々の花が咲き乱れる花壇や水飛沫を上げる噴水がその一角を占め、広大な淡水湖を遠方に望む。

 王宮に住まうのは国を統治する国王夫妻と二人の王女だ。じきに十九歳になる長女アレキサンドラと、二歳下の二女サフィア。代々、王子や王女は十八歳になると本格的に公務に参加し、性別に関わらず第一子が王位を継承する慣わしとなっている。

 この日、国王のマーシャルは隣国の大使夫妻を晩餐会に招いていた。午後、特注のネイビーブルーのドレスに袖を通したアレキサンドラは、自室で姿見の前に立っていた。そこに映るのはストレートの長い黒髪、痩せぎすで比較的長身、顔立ちは平凡そのものの女性だった。

 アレキサンドラは晩餐会が億劫だった。襟元にフリルのあしらわれたロングドレスも、雨粒のような形をしたピンクのトルマリンが散りばめられたティアラも、妹のサフィアならよく似合うだろう。ダークブラウンの自然に波打つ長い髪、同じ色の潤んだように見える瞳、ふっくらした弓形の唇の持ち主のサフィアなら。

 王宮二階の大広間で開かれる晩餐会の間、アレキサンドラは両親やサフィアと共に、大使夫妻に笑顔で接していた。自分より小柄なサフィアと並んだ時に感じる劣等感など、胸の奥に仕舞い込んで。その矢先、ジェームスが彼女の前に現れるのだ。カームリバーで煙突掃除の経験があり、王宮の掃除人として雇われたという。メイドたちが噂話に花を咲かせていた。若い男性が王宮にやってくると聞いたアレキサンドラは、少々憂鬱だった。恐らく彼も、自分とサフィアを比べるだろうという考えが頭をよぎったのだ。

 数日後、ジェームスが王宮にやってくる日。その姿を一目見たアレキサンドラの胸は高鳴った。一七〇センチ台半ばのマーシャルをゆうに超える長身、黒い革のジャンパーに白いシャツ、ジーパンというラフな服装の上からでも窺える、鍛えられた肉体。やや長めの黒髪、くっきりした黒い眉に力強い黒い瞳。専属の家庭教師に勉強を教わり、今もほとんどの時間を王宮で過ごすアレキサンドラが滅多に目にしない、野性味を帯びた美男子だった。

 年配の執事と廊下で立ち話をしていジェームスに目を奪われたアレキサンドラは、暫くしてハッと我に返った。彼女の視線に気づいたジェームスが会釈をすると、アレキサンドラは顔をパッと逸らし、その場から小走りで去っていった。

 この夜、アレキサンドラはベッドに潜り込んだきり、中々寝つけなかった。空気がひんやりするにも関わらず、頬が熱く火照るのがわかる。瞼を閉じれば、出会ったばかりのジェームスの顔が繰り返し脳裏にチラつく。これまでは童話や小説に出てくる海賊やカウボーイに憧れを抱き、理想の男性像として密かに思い描いていた。だが出会ったばかりのジェームスは、それらとは比べものにならないくらいの存在感を放っていた。この時のアレキサンドラはすっかり戸惑い、人知れず芽生えた感情を持て余しつつ、日々を過ごすのだった。

 ジェームスの王宮での評判は上々だった。アレキサンドラはメイドから話を聞くか、遠目に彼を見かけて知るくらいだったが。

 ある夜のこと。

「王女」

 仕事を終えたジェームスが、廊下にいたアレキサンドラを呼び止めた。

「アレキサンドラでいいわ」

 アレキサンドラは俯き加減で、少し間を置いてから答えた。彼女はゆくゆくは女王となる身なんだ。好印象を抱かせるのは得策といえるだろう。そうした考えを、ジェームスは瞬時に頭に巡らせた。

「もしかして、アレキサンドライトから?」

「ええ」

「素敵な名前だ」

「ありがとう……」

 アレキサンドライトーー。神のいたずらと称される神秘的な宝石。その希少性はダイヤモンドに類する。名前を褒められるのはよくあること。ただし、その後が続かないのだ。

「そういや、宝石店のウィンドウ越しに一度見たことあるな。指輪だかネックレスだか。光を受けて色が変わる、何とも魅惑的な宝石だった」

 ジェームスの物憂げな口調に、アレキサンドラは恐る恐る警戒心を解いた。

「それじゃお分かりでしょうね、妹のサフィアも宝石から名付けられたのを。でもあの娘は、サファイアよりルビーの方が好きみたいで」

 ジェームスが柔らかな笑みを浮かべ、アレキサンドラが下を向くまでの一瞬だったが、二人は顔と顔を見合わせた。この夜、二人が交わした会話はこれだけ。雲間から三日月が、王宮と周囲の青々とした草原を照らす、そんな夜だったーー。

 

 それから二人は、時々話をするようになった。アレキサンドラは王宮での出来事や家族の話を、ジェームスは仕事の話やカームリバーにいた頃の話など。お互い、住む世界が違うのを意識しながら。

 ジェームスはというと日に日に、アレキサンドラと顔を合わせる度、不思議な気持ちに駆られた。初対面では、彼女の身分に興味を引かれたくらいだったが、話をするうちに親しみやすさに気づいた。容姿については妹に引け目を感じているというが、ジェームスは気にならなかった。これまでジェームスにとって身近な女性といえば穏やかな母アイダと、異腹の姉ケイティ。ケイティが寄宿学校に入学した時、ジェームスは四歳だった。長期休みには帰省していたが、近寄り難い存在だったことは覚えている。大学生の時にキャメロンが亡くなってゴタゴタが続いたこともあり、女性と付き合うどころではなかったといってもいい。

 ジェームスが王宮にやってきてひと月半。寒さも幾分和らぎ、よく晴れた休日の昼下り。アレキサンドラは庭の芝生に寝そべっていたジェームスを、誰もいない裏庭の木陰に誘い出した。

「川沿いの町ね」

「そう、取り立てて何もない町だけどね。イースターの時期は、石畳の露地が賑やかだった。煤まみれになって煙突掃除をしていた頃は、てっぺんから景色を見渡すのが一番の息抜きだったんだ。地平線に沈む夕陽が川面に映えて、なんともいえないくらい鮮やかでね」

 以前、二人はこの話をしていた。その時のアレキサンドラの眼前には、日没時のカームリバーの光景が浮かんでくるようだった。

「その前は農場にいたんだ。というより、農場で生まれ育った。広大な農地を小作人が耕して、僕は敷地内で遊んで。家畜もたくさんいたな。世話を手伝ったりもしたよ」

「それからどうしたの? どうしてカームリバーに……」

「町の大学に通っていたけど、父の急死をきっかけに辞めた。母もカームリバーに来て働いていたけど、肺を病んで……。今は療養所にいるんだ」

 アレキサンドラは何も言わなかった。王宮で箱入り娘同然に育てられた身では、かける言葉が見つからなかった。

「仕事はキツかったけど、読書が楽しみだった。読書だけはずっと好きで、続けていたんだ」

「道理で博識だと思ったわ」

 畏敬の念が込められたアレキサンドラの物言いに、ジェームスは照れたような表情を見せた。

 二人の様子に警戒心を抱いたマーシャルは夕食の席でアレキサンドラに、国を統治する身分とはいかなるものか、こんこんと説いた。アレキサンドラは黙って聞いていたが、食事が済むとすぐに、苦い顔をするマーシャルを残して席を立った。

 大ホールを後にして廊下を歩いている途中、アレキサンドラはふいに思い出した。十五歳になるかならないかの頃、年配のメイドから聞いたある話を。マーシャルの母の妹の一人が許婚がいるにも関わらず、馬番の男と駆け落ちしたのだ。現在でもこの話は王宮のタブーだが、アレキサンドラはメイドから耳打ちされるように教えられた。当時はピンとこなかったが、眉間に皺を寄せたメイドの表情が印象的だった。

 ちょうどその頃、王宮の人気のない場所や裏庭の片隅で忍び会う二人に、複雑な目を向ける女性がいたーー。

 

 春の陽気が近づいてきたある日。アレキサンドラの部屋のドアをノックする音がした。返事とほぼ同時にサフィアが中に入り、ドアを素早く閉めた。

「サフィア、こんな時間にどうしたの?」

 ドアに背を向けていたアレキサンドラは、座椅子ごと振り向いた。

「あのさ、お姉ちゃん」

 サフィアは部屋の真ん中を陣取るベッドに、トランポリンで弾むように腰掛けた。

「私たち、王女なんだからおしとやかに、いずれは貞淑な女王になるようにって、周りに言われてきたじゃない?」

 アレキサンドラは両手を膝に置いて頷いた。

「覚えてる? 子どもの頃はよく、お城や庭で冒険したよね。一度は大きな木に登って、途中で落ちたこともあった。擦り傷で済んだけど、父さんはもうカンカンで……」

 屈託なく話すサフィアに、アレキサンドラは笑みを浮かべた。

「いくら王女といっても、一人の女でしょう。私、分かってるんだ。お姉ちゃんとあの掃除の男の人……。二人でいると、まるで恋人同士に見える」

 アイボリーのコットンの寝問着をベッドにふわりと広げて座るサフィアが、アレキサンドラにはこれまでのあどけなさが薄れて見えた。

「王宮のことは私に任せて、お姉ちゃんは自分の望むようにして」

「サフィア……」

 

 それから間もなく。

「もうあの男を城から追い出すしかない」

 マーシャルが側近相手に話しているのを、アレキサンドラは耳にした。今夜だわ、今夜しかない。アレキサンドラは決心したものの、気持ちは揺らいだ。部屋を見渡せば、ドレッサーに飾られた家族写真や、マーシャルから贈られた置き時計が目に付く。アレキサンドラの気持ちはなおも揺らいだ。次の瞬間、顔を見たこともない女性の影が浮かんだ。身分違いの恋に身を焦がしたであろう、マーシャルの叔母だ。馬番の男と手を取り合って王宮を逃げ出す場面まで、アレキサンドラの脳裏にありありと浮かんだ。

 時計の針が午前十二時を指す直前、アレキサンドラは自室をそっと抜け出し、ジェームスの部屋を訪ねた。

「私と一緒に逃げて下さい」

 その言葉を聞いたジェームスは眉を寄せた。次に何か言おうと口を開いたジェームスの視界に映ったのは、漆黒の闇夜を思わせるアレキサンドラの澄んだ瞳だった。

「喜んで」

 ジェームスは一言そう答えた。二人は王宮を出て広い庭を駆け抜け、ついに敷地の外へ出た。それから追っ手に見つからないよう、森の奥で一夜を明かすことにした。それから先は、また考えたらいい。きっとどうにかなるだろう、この手を離さなければ。アレキサンドラとジェームスは、繋いでいた手にグッと力を込めたのだったーー。

■

 俺の話を聞きたい?それでは話して差し上げようーー。  俺の目の前には一人の老人がいた。サンタクロースのように白く長い服を着て、木の杖をついた老人だった。俺は彼に向かって話しはじめたーー。  スランプもスランプ、スランプ中のスランプとはこのことか。出だしの一行すら浮かばないなんて、俺の才覚もここまでか。申し遅れました、俺の名前は櫛田敬男。五十代まで残り一年、職業は一応小説家の端くれ。地方出身、都内在住。奥さん?そんなこと聞いてどうするんだよ。まあいいや、バツイチ現在独身彼女なし。

 俺がとある小説の新人賞で特別賞を受賞した時も、勤めていた会社に三十歳目前で辞表を出した時も、応援してくれていた彼女がいた。後に籍も入れたよ、子どもはいなかったけど仲良くやっていけると思ってた。数年後、彼女が男と逃げちまうまでは。それ以来、女なんてゴリゴリだ。

 いや、そうでもないな。言っておくが俺は一七ニセンチほどの身長に体重は若い頃から変わらない標準体重。別に色男でもなんてもないが、笑った顔が可愛いとか言われたことはある。離婚後は出版社の女性とかバーのマダムとか、要するに後腐れない気軽な付き合いなら、何度かしてきた。でも今はスランプなんだ、スランプ。

 俺はノートパソコンの電源を切ってフタを閉じ、メガネを外して眉間を親指でグッと押した。パジャマからカーキ色ポロシャツとジャケット、黒のスラックスという軽装に着替えた俺は、自宅マンションを出た。

 これからどこへ行こう、行きつけのバーにでも行くか。その店は自宅から歩いて十五分ほど、駅前の繁華街の片隅、雑居ビルの地下にあった。店の明かりは居心地いい仄かなオレンジ色、俺は六、七年前から執筆の合間に訪れていた。

 通ううちに指定席らしきものができて、俺の場合はカウンター席の壁際、店内で最も落ち着く場所だ。そこに座り、最近ハマっているカクテルを注文した。年配のマスターは俺を見て愛想いい笑みを浮かべた。

 マスターは顔馴染みだが、バーテンはしばしば入れ替わっている。今は三十代半ばぐらいの美男子、いや、今はイケメンっていうのか。とにかく俺の長話にも時々付き合ってくれるいい男だ。俺は小説のネタ探しも兼ねて、持ってきた週刊誌をパラパラめくった。それにしても下世話な記事ばかりだな。

「カシスオレンジ下さい」

 女の子の声と誰かがカウンター席に着く気配がしたが、俺はそちらに目を向けることなく週刊誌に目を通していた。

 数分後。

「あの、何飲まれてるんですか?」

 俺は顔を上げて、右側の壁と反対側を見た。二十代後半くらいの女の子が、カシスオレンジのグラス片手に見ていた。いや、待てよ。俺は咄嗟に店内を見回したが、カウンター席には他に中年男女一組だけで、女の子の可愛らしい顔は確かに俺に向けられていた。

「ああ……。これはね、モッキンバードっていうんだよ」

 女の子の頭にクエスチョンマークが浮かぶのが見えた。

「テキーラを、ミントリキュールとライムジュースで割ったカクテルなんだ。ジュースは、レモンでもライムでもどっちでもいいんだけど。テキーラは強いから、多めのジュースで割るといいよ」

 バーテンからの受け売りだったが、俺はよどみなく説明した。

「ちなみにモッキンバードって、メキシコにいる鳥なんだけど、別に羽がカクテルみたいに緑色ってわけじゃないんだ」

「そうなんですか、あんまりキレイだから気になって。ありがとうございました」

「そうそう、変わったカクテルぁし、そりゃ気になるよな」

 俺は女の子の丁寧な受け答えや、白いニットに膝が隠れるくらいの丈の茶色いスカートといった服装に好感を抱いたが、勘違いしないよう自分に言い聞かせ、再び週刊誌に手を伸ばした。

「あの……。もしよかったら、もう少しお話しません?カクテルの話、面白かったし……」

 いやあ、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな。俺はすっかり浮かれていた。

「名前は?俺は櫛田敬男」

「麻希っていいます」

 彼女は俺の名前を聞いても顔色一つ変えなかった。

「麻希ちゃん? あのさ、俺の小説知らない? 夜霧の街角とか再会のあの日にとか、エッセイもあってさ」

「えっと……。知らないです、ごめんなさい」

「いや、いいんだ……」

 ああ、最高傑作が……。暫くしてから麻希ちゃんは、自分の話を始めた。勤め先のアロマ専門店のこと、何年も前に別れた彼氏のこと、家族のこと。その落ち着いた声のトーンは、別れた妻を思い出させた。

 少しずつ、記憶が甦る。彼女の名前はもちろん、生年月日に出身地。いや、そんなありきたりなことばかりじゃない。彼女の好きな映画や音楽。

 付き合っていた頃、何度か映画館でデートした。女の子だし、てっきりキャラメルポップコーンが好きだろうと思っていたら、映画を観ながらものを食べない主義だと言って、ブラックコーヒーを飲んでいた。俺の方がブラックが無理でキャラメルマキアートを頼んだら、クスクス笑われたっけ。

 それから好きな作家。そもそも彼女と付き合うきっかけになったのは、会社の親睦会だった。ある秋晴れの日曜日、同僚らが公園の芝生にレジャーシートを敷いてくつろぐなか、俺は隅のベンチで文庫本を読んでいた。そんな時、彼女が話しかけきたんだ。好きな作家が一緒で、俺が文学賞に応募している話に目を輝かせて……。

 うまくいってるはずだった。俺が締め切りに追われて忙しかろうと、資料集めや雑事を手伝ってくれていた彼女をないがしろにしようと。彼女は何も言わなかった、離婚届を置いて急に姿を消して。それまでに兆候はあったかもしれない、気づかなかった俺が傲慢だっただけだ。

 静かな空気を感じた俺は、ハッと顔を上げて右側を向いた。いつの間にか麻希ちゃんは話をするのをやめていたのだ。俺に気づくと、口元でにっこり笑ってこう言った。

「お水でも飲みます?」

「ああ、そうするよ……」

 透明なグラスに注がれた冷たい水を一気に飲み干すと、酷暑の日にシャワーを浴びるような、身体全体が甦る気がした。 

「そろそろ出ようか……」

 立ち上がると頭がクラクラする、対称的に麻希ちゃんは涼しい顔だ。ビルの外に出ると、十月にしては夜風が冷たい。

「敬男さん、私……」

「麻希ちゃん……?」

 麻希ちゃんがジャケットの裾をギュッと摘んだ。何年か振りに心臓が大きく跳ねるのがわかった。

 麻希ちゃんの向こうにネオンが見える。信号機みたいな赤や黄色、たわわに実った果物みたいなピンク色、紀行番組で見たことのあるカメルーンの熱帯雨林みたいな緑色、アクアマリンの宝石みたいな水色。俺の視界の奥で色とりどりのネオンが、キラキラと光る川面のように揺れていたーー。

「それで、話の続きは?その女の子とはその後どうなったんだ?」

 老人はワクワクしながら俺に聞いた。俺は老人に言った。

「意地悪なこと聞きますな、神様。あなた、天国の入り口で俺が来るのを待っていたんでしょう」

無情の夢③

それからどこをどう歩いたのか、くるみにはさっぱり記憶がなかった。気がつくとくるみは着心地のいいグレーのパジャマを着て、自室のベッドに寝ていたのだった。クリスマスイブは、章一と向かい合って市販のショートケーキを食べるうちに過ぎた。ケーキに添えられたサンタクロースの砂糖菓子が、くるみをほっこり和ませてくれた。

 翌日のクリスマス、章一は卵とじうどんを作った。うどんを鍋で煮込んでめんつゆを加え卵でとじる、手軽な作り方のうどんだ。佐千子が亡くなって以来、章一がよく作るようになったメニューの一つでもある。
「うん、おいしい。やっぱりお父さんの作る卵とじうどんが一番だな」
 くるみは和室のちゃぶ台でうどんを啜り、章一に笑ってみせた。
「そうか……」 
 章一はぎこちない笑みを浮かべた。章一はくるみに何かあったと薄々気づいていたが、何も言わなかった。うどんを食べ終えたくるみは、改めて室内を見回した。小さな仏壇、章一か貼り替えたばかりの障子、和風のランプ。 
 狭いけど落ち着く……。銀座も楽しかったけど、やっぱり家が一番だな……。
 次の日からくるみは、正月を迎える準備に追われた。忙しさに気を紛らわせつつも、ふとした瞬間、晴彦の顔や銀座で過ごしたつかの間の光景がくるみの頭をよぎるのだった。
 
 正月も明け、日常に戻る頃。リーンリーン。自宅の廊下で電話が鳴り、くるみは受話器を取った。
「はい、中村で……。ああ、恵子、久しぶり」
「久しぶりじゃないわよ、くるみ。どういうこと?」
 キョトンとするくるみに、恵子が興奮気味に話しはじめた。電話口の向こうには千枝もいるようだった。恵子の話によるとこうだ。先日久々に撮影所を訪れたら、晴彦の方から話しかけてきた。中村くるみにひどいことを言ったのを謝りたいから、撮影所に呼んでくれないか、と頼まれたというのだ。
「ねえ、くるみ、どういうこと? 佐山さんと何があったの?」
「ごめん、落ち着いたら話すね。それで、佐山さんは……」
「佐山さん、明日のお昼に撮影所に来られないかって。佐山さんが前に煙草を吸ってた場所だって」
「わかった、連絡ありがとう」
 
 翌日、正午を迎える少し前。くるみは少し早い電車に乗り、東活の撮影所に向かった。指定された場所に、カーキ色のオーバーと黒いズボンを履いた晴彦がいた。
「佐山さん」
「ああ……」
 晴彦はくるみを見ても表情を変えなかった。本当はここに来るために精一杯お洒落をしてこようとくるみは思っていたが、どんなに着飾っても自分は自分なのだから、結局普段着の茶色のダッフルコートとそこらのセーターやズボンという格好で来たのだった。
「君が本物の中村くるみくんだね」
「は、はい……」
 晴彦に顔をじっと見られ、くるみは消え入りそうな声で返事をした。くるみは蝶々のラトリスに魔法の国に連れていかれたことから何から、洗いざらい晴彦に話した。晴彦は狐につままれた顔で聞いていた。 
「そうか、魔法だったのか、あれは……なるほどな。俺はこの先、何を見ても動じなくなるだろうな。それよりすまなかったね、ひどいこと言って」
 晴彦はオーバーのポケットから片手を出して、頭の後ろを押さえた。
「いえ、私の方こそ騙すような真似をして……」
「ところで君、これからどうするの? 」 
「これまで通り、父の工房を手伝います。小さな工房ですが、工芸品や民芸品を作っているんです…」
「そうか、まあ頑張れよ」
「あの、佐山さん」
 くるみは思いきって声をかけた。
「私、佐山さんの生年月日で占ってみたんです。四柱推命といって、中国に古代から伝わる占いで……」
 占いと聞いて、晴彦は怪訝そうに眉を寄せた。
「えっと、佐山さんには十二運の中の帝旺と建禄っていう、特に強い星がついていて……。その星の下に生まれた人は、社会で活躍する人ばかりなんです……」
 くるみのたどたどしい説明を、晴彦は時折頷きながら黙って聞いていた。 
「だから佐山さん、きっと役者として大成しますよ」
「へえ。それじゃ、そのつもりでやってくよ」
 晴彦の穏やかな口調に、くるみはこれまでと違った空気が流れるのを感じた。
 
「そうだ、俺さ、恋人ができたんだ。六歳下で、去年東活に入社した駆け出しの女優なんだ」
「そうなんですか……。おめでとうございます」
 くるみは素直にそう口にした。
「ありがとう、隆二くんにも言われたな、プレイボーイの君も年貢の納め時だなって」
「その人、綺麗な人なんでしょう?」
 くるみは試しに聞いてみた。
「いや、それは……」
「いいですよ、はっきり言ってくれて」
「ああ、かわいい娘だよ。でも、なんていうか……それ以上に一途で、本当にいい娘なんだよ……」
 晴彦が狼狽えて見えるのを、くるみは珍しいと思った。
「いいですよ、もう」
 くるみはクスクス笑った。
「からかわないでくれよ」
 晴彦が笑うと、目尻に皺が寄るのがわかった。 晴彦が年を重ねると、もっと深い皺が刻まれるだろう。
 でもこの人は、年を重ねてもきっと素敵だろう。そしてその時、この人のそばにいるのは私ではない。私のほしかったもの。それは魔法のドレスでもガラスの靴でもない。この人が本当に笑った顔だ。それこそが最も手に入らないもの。はじめからよくわかっていた
 
「おまけにもう一つ教えてあげるよ。君、口は堅そうだからね、まだ誰にも言わないね」
 「は、はい……」
  念を押されたくるみは僅かに身構えた。
「隆二くん、いるだろ」
 くるみが頷くと晴彦が話を続けた。
 「隆二くんは、同じ東活の専属女優の雪原小枝さんと付き合ってるんだ」
 くるみが目を丸くすると、晴彦が少し得意そうにした。
 「驚いたろ?  知ってる人は、まだそんなにいないからね。会社のお偉いさんに反対されるだろうからって、二人ともおおっぴらにしてないんだ」
 岩瀬さんと雪原さんが……。知らなかった。それに雪原さん、佐山さんがタイプってわけでもなかったのね。なんだ、そっか……。
「ところで君さ」
「はい」
「俺の本名知ってる?」 
 くるみが首を横に振ると、晴彦が話を続けた。
「尊志(たかし)だよ、佐山尊志。晴彦は東活に入社した時、会社のお偉いさんが付けてくれたんだ。それまでは俺、小さな劇団で新劇をやってたんだ。その時は本名で出ててさ」
 「尊志……さん……」
 口に出してみると妙な感覚だった。くるみの頭の中を、ここ数ヶ月の出来事が回転木馬のように回しだした。
 私はこれまで、この人の何を見ていたのだろう。もしかして何も見ていなかったのかもしれない。いや、見ようともしていなかったのかもしれない。
 もしかしたらずっと夢を、無情の夢を見ていたのかもしれない。白と黒の大きなスクリーン、銀幕の世界。魅力的な登場人物に、ドラマチックなストーリー。華やかだが、どこか虚構の世界。全てはフィルムが回っている間の夢、まさに無情の夢。
 急にくるみの視界がクリアになり、景色がこれまでと違って見えるようになった。
「それじゃ、元気で」
 晴彦は口元だけで、くるみに儀礼的な笑みを浮かべた。 
「さようなら……」
 くるみもぎこちない笑みを浮かべ、去っていく晴彦の背中を見送ったのだった。
 
 数ヶ月後。
「ねえ、聞いた? 今度新しく撮影に入る映画」
 「何? 何?」
「監督さんはなんでも、よその映画会社から引き抜かれてきたんですって。四十代手前の、わりと美男子だそうよ」
 東活の撮影所の建物の一階にある、台本の読み合わせなどを行う部屋。女優や女性スタッフが噂話をしていた。
 そこにスーツを着た幹部の中年男性がやってきて役者やスタッフを集めると、勿体ぶったように咳払いを一つした。
「えー……これから撮影に入る映画のタイトルは無情の夢。主演は佐山晴彦くんだ」 
 一同が拍手する中、晴彦はこれまでになく誇らしい心境でいた。
 「そして監督は……」
 コツ……コツ……黒い革靴を鳴らし、一人の男が大勢の前に姿を現した。実直そうな顔つき、薄手の茶色いジャケットをさりげなく着こなした引き締まった体躯。男はいかにも溌剌としていた。その場にいる全員の視線が集まるなか、男が口を開いた。
「海映(かいえい)から来ました。武中秀一郎と申します。よろしくお願いします」

無情の夢②

なんで私、佐山さんにあんなこと言っちゃったんだろう。もう消えてしまいたい……。

 晴彦の言葉にくるみは、目の前が暗くなるような感覚に陥った。くるみは撮影所の最寄り駅に戻る道とは反対方向を、ふらふら歩いた。辺りは一段と暗くなり、気がつくとくるみは大きな河川に架かる橋の上で、欄干に両手を置いて佇んでいた。数日前の大雨で増水した川が、ゴーゴーと音を立てて流れていた。
 ここから濁流めがけて飛び込めば……。
 その時だった。一羽の蝶々が鮮やかなレモンイエローの羽を大きく広げて、くるみに向かって飛んできたのは。
「な、何……? この蝶々……」
 くるみはギョッとした。
「久しぶりね、あなた」
 蝶々が話しかけてきて驚いたが、まるで蝶々がくるみが早まったことをするのを止めに来たように見えて、くるみは少し冷静になった。
「私のこと覚えてない?」
 蝶々がくるみに尋ねた。蝶々のレモンイエローの羽を見ているうちに、二ヶ月前の出来事がくるみの脳裏に蘇ったーー。
 
 都内にも秋めいた風が吹くようになった十月下旬。くるみは章一に頼まれて少し遠くの金物屋に出かけた帰り、道端で大きな蜘蛛に睨まれていた蝶々を助けたことがあった。
 やだ、もじゃもじゃして気味悪い蜘蛛。このままだと蝶々が……。
 くるみが木の枝でつつくと、蜘蛛はサーッと逃げていった。この時も蝶々はくるみの周りをヒラヒラ飛び、夕暮れの空の彼方に姿を消したのだったーー。
 
「私は魔法の国から来た蝶々なの。あの時、蜘蛛から助けてくれたあなたを探していたのよ」
 魔法の国という言葉をくるみは半信半疑魔法の国という言葉を、くるみは半信半疑で聞いた。
「ねえ、何があったの? 悲しそうな顔して……」
 蝶々は黒い触角を揺らしてくるみに尋ねた。さやかや麻衣にも言えそうにないと思っていたくるみは、蝶々にこれまでの出来事を話した。
「わかったわ、それじゃ魔法の国に連れていってあげる」
 
 次の瞬間、くるみと蝶々はあっという間に暗室のような真っ暗な部屋にワープしていた。くるみの目にかろうじて輪郭が見える蝶々が触角を揺らすと、天井からぶら下がったチューリップの花を逆さにしたような形のランプがパッと点いた。
 「ここは魔法の国の国王が住まう一室なの。人間が来ることは滅多にないのよ」
「そうなの……」
 いつの間にかくるみの目の前に、年齢不詳に見える一人の女性が立っていた。その女性は一六〇センチ台半ばくらいの身長。絵本やファンタジー映画で見るような紫色の長いローブを着て、茶色い木の杖を手にしていた。女性は濃いめの化粧を施した顔で、にこやかにくるみを見ていた。
「あらあら、この娘なのね。うちのラトリスを助けてくれたのは」
 女性の声は、くるみの予想を裏切るように低く掠れていた。おまけに喉仏が突き出ていたが、くるみは気にしないことにした。
「ラトリスから話は聞いてるわ。お礼に一晩、魔法をかけてあげる」
 魔法使いはリッツと名のり、蝶々はラトリスといった。リッツに促されたくるみは、美容室に置いてあるような大きな椅子に腰掛けた。くるみの目の前には、これまた美容室に置いてあるような大きな鏡。
 やだ、佐山さんに言われたことを思い出しちゃう……。
 くるみがふと顔を曇らせると、リッツがくるみの手に自分の手をそっと重ねた。くるみを安心させる温かさだった。 
「でもあなた、中々勇気があるのね。好きな人に好きって言えるなんて、すごいじゃない」
「でも私なんかに好きって言われて、佐山さんは迷惑だったんじゃ……」
「そんなことないわよ。気持ちを伝えられる相手がいるだけ、素晴らしいことだと私は思うわ」 
 リッツが意味深な顔をして黙り込むと、くるみは心配そうに、鏡に映るリッツを見た。
「私も思い出すわ、竹中くんのこと……」
 リッツはポツリと呟いて、懐かしそうに語りだした。
「私は若い頃、国王の命令で人間界に留学していたことがあるの。その時、高校の同級生だったのか武中秀一郎くん。美男子で成績が良くて、女生徒に人気があったわ。それにどこか超然とした雰囲気があって、男子からも一目置かれていたのよ」
 くるみはリッツの話に聞き入っていた。リッツはくるみの顔や髪を触りながら話を続けた。
 「武中くんと同じ空間にいられて、たまに声をかけてもらえるだけで私は幸せだったわ。それに私は魔法使いだし、人間と恋に落ちるなんてご法度。結局、武中くんに好きって打ち明けることはなかったのよ」
「そうだったんですか……」
「それからすると、あなたはいいわよ。その佐山って男に、少なくとも気持ちは伝えられたんだから」
 リッツは調合したラベンダー色の液体を霧吹きでくるみに吹きかけ、木の杖を一振りして呪文を唱えた。
「佐山をこれであっと言わせるといいわ」
 くるみは閉じていた目を恐る恐る開け、こわごわと鏡を見た。くるみの目の前には、これまで見たことのない美女がいた。
 これが私……? なんだか嘘みたい……。
 「一晩だけよ、その姿なのは」
 リッツがくるみに念を押した。くるみはリッツの言葉を耳に入れながらも、意識は鏡に映る美女にあった。
 憧れの雪原さんに似てる……。 
くるみが着ていたロングドレスはオレンジ色のシンプルなデザインで、真珠のスパンコールが散りばめられた魔法のドレスだった。おまけに身体全体膜がかかっているように見えた。
 くるみがずっと身に着けていた斜め掛けのポシェットは、光る素材でできたハンドバッグに変わっていた。おとぎ話で主人公が舞踏会に持っていくようなバッグだとくるみは思った。 
「どう?素敵でしょう」
「とってもかわいいわよ」
 リッツはにこやかに言い、ラトリスは嬉しそうにくるみの周りを飛んだ。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」 
 鏡に見惚れるくるみに、リッツがフッと微笑んだ。
「さあ、立って。次の魔法が肝心なのよ」
「なんですか?」
 くるみはスッと立ち上がり、リッツに尋ねた。
 なんだか身のこなしも優雅になったみたい。雪原さんや綺麗な女優さんみたいに……。
 「自信を持つこと。そうでしょう?」
「リッツさん……」
「そうよ、頑張ってね」
「ラトリスも、二人ともありがとうございました」
 
 くるみはラトリスの魔法によって、再び人間界に戻ってきた。魔法の国にいる間とは時間の経過が異なっており、くるみが晴彦に手鏡を手渡された日の翌日の夕方になっていた。
 その足で撮影所に出向いたくるみは、周囲がざわめくのを感じた。
 人々の羨望の眼差し、息を飲む声。雪原さんみたいな女優さんって、こんな感じなんだ……。
 スニーカーの方が慣れているくるみだったが、不思議にガラスのハイヒールで颯爽と歩くことができた。俳優や男性スタッフ、または女性スタッフとは違い、何人かの勝ち気そうな女優は敵意にも似た鋭い視線をくるみに向けてきた。くるみは怯みそうになったが、胸を張り歩き続けた。
 群集の中、くるみは探していた顔をすぐに見つけることができた。それは晴彦の顔だった。晴彦は、ベレー帽を被った監督らしき年配の男性や若い男性スタッフと数人で談笑していた。
 「おい、誰だろう。あの美女……」
 男性スタッフの言葉に顔を上げた晴彦は、くるみを一目見てパッと目を煌めかせた。魔法で美女になっているとはいえ、くるみの胸中は複雑だった。晴彦がくるみにゆっくり近づいてきた。
「君、俺のこと知ってる? 東活で俳優やってる、佐山晴彦」
「ええ、知ってるわ……」
 くるみは晴彦の目をじっと見て返事をした。ロマンス映画でヒロインが、相手役のヒーローに微笑みかける場面を意識して。
 
 それから話は早かった。晴彦とくるみは二人、夜の銀座に来ていた。晴彦は黒いスーツに藍色のネクタイを締め、黒いオーバーを着ていた。晴彦にはやはり黒が似合うと、くるみは思った。
 銀座の大通りのビルの前には、三階まで届きそうな高さのクリスマスツリーがあった。ツリーの緑色の葉からは赤と白の縞模様の靴下、カラフルなスノーボール、雪だるまや雪の結晶の飾りなどがぶら下がっていた。
「明後日はもうクリスマスイブだね。今年はここらにも雪が振りそうだ」
 ツリーに見惚れるくるみに、晴彦が声をかけた。
「子供の頃、雪だるまを作ったことがあるわ」
「俺もあるよ。でも、次の日には溶けてるよね」
 晴彦が笑った。二人は近くのダンスホールやってきた。流れていたのは落ち着いたクラシック音楽。やや仄暗い照明の下、何組かのカップルがダンスを楽しんでいたが、互いの世界に夢中になって他のカップルには無関心に見えた。晴彦の右肩にそっと左手を添えたくるみは、音楽のゆったりしたテンポに合わせて身体を揺らした。
 向かい合って踊るなんて映画でしか観たことないけど、なんとか形になってるかな……。それにしても佐山さんと踊るなんて、変な感じ。
 
 一旦ダンスを終えたくるみは外の空気を吸おうと、誰もいない二階のテラスに出た。
「ここにいたんだ」
 くるみが夜空を見上げていると、晴彦もやってきた。夜空に煌めく満天の星、目の前にいる佐山晴彦。くるみが空想していた通りの光景だった。晴彦の微笑んだ顔も、怖いくらい空想と同じだった。
 これもリッツの魔法……? なんだか現実味がない……。
 くるみはシャンパンを飲み干した後のような、ふわふわした感覚でいた。テラスの白い柵に片手を置いた晴彦は、もう片方の手をくるみの右手の甲に重ねた。
「もっと君を知りたい……。一晩、僕と過ごさないか……?」
 やだ、佐山さんってこんな風に女の人を口説くの……?
「ちょっと私、じ……実家に電話してきます……!」
 晴彦の手を振りほどいたくるみは、誰もいない廊下の片隅に駆け込んだ。
 とにかく深呼吸して落ち着こう。あれ? 鞄がない。テラスに置いてきちゃったんだ。どのみち魔法は一晩限りだし、もう帰ろうかな……。
「君……。これはどういうことなんだ」
 テラスに戻ったくるみに晴彦が突きつけたのは、アンティークの手鏡だった。
 しまった、佐山さんから貰った手鏡、さっき鞄を落とした拍子に滑り落ちたんだ。
「それは、その」
「君はまさか、よく見学に来ていた子か。名前は確か、中村くるみ」
 重い沈黙が流れた。くるみが小さく頷くと、晴彦は信じられないといったように片手で頭を押さえた。
「あ、あの」
 くるみは躊躇いながら顔を上げた。晴彦がくるみを見る目には、軽蔑の念が強く込められていた。
「危なかったよ、眼中にもない女を口説くところだったとは。もう俺の前に姿を見せないでくれないか?」
 
「ねえ、リッツ」
 魔法の国のお城の一室。大きな肘掛け椅子にゆったり腰掛けるリッツに、ラトリスがヒラヒラ飛びながら話しかけた。
「何? ラトリス」
「あの女の子、今頃どうしてるかしら」
「気になるのね、ラトリス。残念だけどあの娘には、もう会うことはないと思っておいた方がいいわ。ラトリスを助けてくれた、お礼に一晩魔法をかけてあげたんだから。それに人間には深入りしないよう、国王にも言われてるでしょう」
「そうね……まあ元気だといいけど」
 紫煙をくゆらすリッツの回りを飛びながら、ラトリスはくるみの顔を思い浮かべるのだった。

無情の夢①

十一月中旬の冷たい夜風が肌を突き刺す午後九時過ぎ。東京メトロ沿線、駅前の大通りを一本脇に入った舗道を、一人の男が歩いていた。年格好は二十代後半といったところ。まっすぐ上がり、眉尻にかけて曲がった黒い眉、同じ色のはっきりした瞳。やや東洋人離れした高い鼻に形のいい唇。男は彫りの深い端正な顔立ちの持ち主だった。  黒いズボンと靴を履いた長身痩躯の男は、渋めのカーキ色のオーバーのポケットに両手を入れてまっすぐ前を見据えて歩いていた。 「ちょっと、そこのあなた」  豊かな黒髪をなびかせる男を呼び止めたのは、占い師の老婦人だった。小柄な占い師はネイビーブルーの布を敷いた段ボール箱を路上に置き、神秘的な水晶玉の前に座っていた。水晶玉占いの他にはタロットカード占いや手相占いなど、いずれもよく当たると評判だった。  えんじ色のスカーフを顔の周囲にぐるりと巻いた占い師は、奥まった目で男をジロリと見た。男は占い師の前に立ち止まると首を左右に動かし、往来に他には誰もいないことを確かめた。その悠然とした動作からは、育ちの良さが窺えた。 「俺?」  男は占い師に尋ねた。男が訝しげに眉を動かすと、目鼻の造形が余計際立った。 「そう、あなた中々の美男子だけど、女難の相が出ているから気をつけた方がいいわよ」 「はあ」  占い師は声に警告の色をにじませたか、占いなど頭から信じていない男はぞんざいに返事しただけだった。  なんだ、この占い師。この俺に女難の相だと。そんなこと起きるわけないだろ。  男はそのまま帰路に着いた。これから男の人生に、ある変化が起きるとは知らずーー。 「これでいいかな……」  その翌日。都内郊外下町、個人商店が軒を連ねる一角。中村くるみは自宅二階の自室でタンスの引き出しを開け閉めしながら、身支度に迷っていた。  今着てる白いパーカーとデニムのズボンは普段着だけど、あんまりいいの持ってないしな……。  くるみは壁に掛けられた鏡を覗き込み、肩までの長さの髪が乱れていないか、緑色のヘアピンが留められているか確かめた。 「いけない、待ち合わせに遅れちゃう」  目覚まし時計の針が午前十一時を指しているのを見て、くるみは慌てて部屋を出た。タンスの傍らには、雑誌の星占いのページが開いたまま落ちていた。くるみの星座である牡牛座の項目には、「ラッキーカラーは緑色。勇気を出して踏み出せば、素敵な出来事が待ってるかも」と書かれていた。 「お父さん、ちょっと出かけてくるね」  階段を下りたくるみはダイニングに顔を出し、テーブルに向かう父に声をかけた。 「また東活(とうかつ)かい? 飽きないねえ」  自宅兼工房で工芸品や民芸品を作る職人をしている章一は、彫刻刀を持つ手元から目を離さず言った。  廊下に出たくるみは玄関の脇の小さな和室に入り、仏壇に飾られた母の遺影に手を合わせた。くるみの母、佐千子が病死したのはくるみが高校二年生の年だった。悲しみや寂しさは時とともに少しずつ和らぎ、くるみは何気なく遺影を手に取った。  美人と評判だった佐千子が章一と結婚する際、周囲は驚いたという。章一は一七〇センチ足らずの身長にガッチリした体格、強面で寡黙だが根は優しい。  そして一人娘のくるみはというと、太めの眉にあっさりした目、低い鼻に大きめの口など、不思議とどちらにも似ていなかった。純和風とか笑うと愛嬌があってかわいいとか、無理して褒められたことはあるが、美人に程遠いの確かだった。くるみは鏡を見て、たまに溜め息をついていた。  高校を卒業したくるみは家事を切り盛りしつつ、章一の工房を手伝う日々を送っていた。そんなくるみに最近、ある楽しみができた。 「くるみ、こっちこっち」 「ごめんね、待った?」 「私たちも今来たとこ」  くるみが最寄り駅の改札口に着くと、高校時代の友人である恵子と千枝が手を振った。昭和三十年代後半。この頃、日本国内で製作される映画は活動写真と呼ばれており、いくつかある映画製作会社が数多くの作品を制作、各映画館に配給していた。監督や役者やスタッフは各会社に所属し、専属で活動していたのだった。  中でも東京活動写真製作会社、略して東活はアクション映画を筆頭に興行収入上位を記録し、岩瀬隆二や雪原小枝(さえ)といったスターを排出していた。東活の撮影所は田んぼに囲まれた郊外にあり、くるみたちのような一般人も撮影の様子を見物することができた。  撮影所の最寄り駅で電車を降りたくるみたち三人は撮影所の正面の入口から入り、見物の女の子たちの一団に加わった。くるみたちの目当ては俳優の佐山晴彦、彼は今年で二十七歳になる。サスペンス映画のワンシーンだろうか、グレーのスーツを着た晴彦は右手に小道具の拳銃を構え、左手で共演者の女優の肩を抱いているところだった。  晴彦と対峙する俳優は、晴彦とは対称的に丸腰でラフな格好の岩瀬隆二。敵役の晴彦を説得する大事なシーンで、役者も監督もスタッフも、見学の女の子たちも張り詰めた空気の中にいた。晴彦と隆二は、この空間でも目立つ存在感を放っていた。 「本当、佐山さんって美男子よね」 「拳銃を構えてると、様になるしね」  カットの声がかかって休憩に入り、恵子と千枝が話しはじめた。 「でもあんまり美男子だと、役者としては大成しないって聞いたことあるけど」 「どうして?」 「ほら、監督さんやお偉いさんが男の人だと、嫉妬されてあんまりいい役を貰えないらしいわよ」 「それじゃ佐山さんも?」  自分より背の高い二人に挟まれて、くるみは驚いた声を出した。 「そうそう、この映画の主演の岩瀬さん。今の東活で、一番勢いに乗ってる俳優さんでしょう。佐山さんは、岩瀬さんの友人やお兄さんの役で助演ばかり。映画だと佐山さんと岩瀬さんがヒロインを巡る三角関係になって、佐山さんは結局フラレる展開ばかりよね」  恵子が、くるみと千枝に話して聞かせた。 「本当ね、佐山さん東活に入社して四年になるのに、いまいちパッとしないのよね……」  撮影はまだ続いていたが、くるみたち三人は黙り込んでしまった。 「カット! よし、オーケー!」  監督の指示を受けた助監督が大声を張り上げた。 「佐山さん、お疲れ様……」 「ああ、お疲れ」  妖艶に光るサテンのドレスの衣装を着た女優が、口角を上げて晴彦に微笑みかけた。 「見学の女の子があんなに大勢……。佐山さんを見に来てるのね」 「そんなんじゃないよ」  晴彦は謙遜してみせた。  またか、この女の熱っぽい視線、何か言いたげに少し開かれた唇……。  急に背が伸びだした十代後半の頃から、晴彦はこのような女性の視線に慣れっこだった。  この女といい、見学の女の子たちといい、俺に惚れてる女ばかりだ。それを昨夜の占い師ときたら、何が女難の相だ。  水晶玉の前に座っていた占い師の老婦人を思い出した晴彦は、内心そう毒づいたのだった。  撮影所に見物に訪れたその週の、とある平日の夜、くるみは自室で、芸能関係の月刊誌「彗星」に目を通していた。巻頭のカラーページの特集は、女優の雪原小枝のグラビアだった。  小枝は東活が絶賛売り出し中の二十四歳。「月明かりの季節」や「鐘が鳴るまでこの恋を」などの文芸作品でヒロイン役を演じ、美貌と演技力で好評を博していた。  肩より長い波打つ黒髪を背中に流した小枝は、白いノースリーブのブラウスに黒地に白い水玉模様のロングスカートといった、スラリとした長身を引き立てる装いでページを飾っていた。  素敵だな、雪原さん……。  くるみはページをめくりながら溜め息をついた。  こんな女の人だったら、佐山さんとも釣り合うんだろうな。私も雪原さんみたいだったら、気後れすることなく佐山さんと外で会えるのに。二人で銀座に行くのがいいかな。時計台の下で待ち合わせして、夜景を見て。満天の星が煌めいて、スパークリングワインなんてなくても酔いしれる夜……。  くるみがそんな空想に耽っているうちに、夜は更けていった。  その日以降もくるみたちは見物に訪れたが、晴彦は地方ロケのために不在であることが続いた。 「今日もいないんだって、佐山さん」  見物の女の子たちの話を、くるみは小耳に挟んだ。  佐山さん、いないのか……。寂しいなんて思っても佐山さんはそもそも違う世界の人だし、見物に来てたまに姿を見られるだけでも十分よね。  十二月中旬。クリスマスと正月を迎える準備で街の人たちが慌ただしくしても、特に予定のないくるみは普段通りに過ごしていた。一方で、短大卒業を控えた恵子と就職先の和菓子屋が繁忙期を迎えた千枝は、見学から遠ざかっていた。  ある夜。くるみは自室で晴彦のブロマイドを眺めていた。 「佐山さん、やっぱり素敵……」  佐山さんは顔立ちも素敵だけど、雰囲気や仕草が優雅なのよね。  くるみは晴彦が頬杖をついてカメラに向かって笑いかける、特にお気に入りの一枚を穴の空くほど見つめていた。  佐山さんの周りにはいつも、雪原さんみたいな女優さんや、綺麗な女の人が大勢……。私なんて間違っても相手にされるはずがない……。  ブロマイドを片手にくるみは、そんなことを考えていた。  翌日の午後。くるみは工房の手伝いもそこそこに、一人電車に乗って東活の撮影所に向かった。近道である商店街を抜け撮影所の大きな門をくぐるまで、くるみは逸る気持ちを抑えられそうになかった。  ちょうど昼休みの終わり頃らしく、晴彦は大きな建物の脇で煙草を吸っていた。撮影中の映画の衣装だろうか、晴彦は黒いスーツを着ていた。右手の指に煙草を挟んで、悠然と煙を吹かす。  晴彦のそんな姿も様になっているとくるみは思ったが、晴彦はやはり少し疲れて見えた。くるみが遠くの方から見つめていると、ふいに晴彦がくるみに顔を向けた。  やだ、佐山さんと目を合わせるなんて、ドキドキしちゃう……。  くるみは咄嗟に俯いたが、思いきって顔を上げ、晴彦の朱色のネクタイの辺りに目線を向けた。なんてことのない茶色のダッフルコートにデニムの膝丈のスカートを履いてきたくるみは気恥ずかしくなり、肩から斜めに掛けていたポシェットの紐を指で弄んだ。すると晴彦がくるみに近づいてきた。 「そうだ、君、よく撮影見に来てるよね。今日は一人なの?」 「は、はい……」  くるみは頬がカーッと熱くなるのを意識しながら、変に裏返った声で返事をするのが精一杯だった。 「えっと……。いつも撮影お疲れ様です」 「ああ、また都内で撮影だからいいけどさ、こないだまで信州の山奥でロケだったんだ。朝から晩まで撮影続きで、もう参ったよ」  晴彦が気さくに話しだした。思っていたよりお喋りな人だとくるみは思った。 「そういや君、名前は?」 「中村……くるみといいます」 「くるみ? へえ、珍しいな。でもかわいい名前だね」  晴彦にかわいい名前と言われて、くるみは嬉しくなった。同級生に同じ名前の女子がいなかったり、リスの好きな食べ物と言われてたり。この名前があまり好きでない時もあったが、この時ばかりは名付けてくれた章一に感謝した。 「それじゃ時間だから。また見物に来なよ」  晴彦は煙草の火を消し、建物の中に戻っていった。ほんの僅かでも晴彦と話をすることができた驚きと喜びに、くるみの胸はいっぱいだった。  くるみはその場から動くことなく佇んでいた。そうするうちに、建物から出てきた晴彦が一人歩いてきた。昼間に着ていた衣装のスーツではなく、ダークグレーのオーバーにジーパンというくだけた格好だった。 「あれ? 君……まだ帰ってなかったんだ」  くるみを見つけた晴彦は、少し驚いた顔をした。 「どうかしたの?」 「佐山さん、好き……」  気がつくとくるみは声に出していた。 「佐山さんが、好きです……」  くるみは声が震えるのがわかった。おまけに心臓がバクバクしていた。晴彦の顔を見るのも怖かった。晴彦は少しの間くるみを見つめてからそう言った。 「ちょっと、ここで待っててくれる? すぐ戻るから」  晴彦がその場を離れて七、八分。  なんだろう、すごくドキドキする……。  くるみはソワソワしながら待っていた。戻ってきた晴彦は軽く息を弾ませていた。 「ほら、これ」 晴彦が包装紙に包まれた物を差し出すと、くるみはそれを受け取った。 「あげるよ」  くるみが白い簡素な包装紙を開けると、ちょうど片手で握れるくらいの長さの持ち手の付いた楕円形の手鏡が出てきた。それはアンティークの手鏡だった。鏡の裏面はオフホワイトで、全体に薔薇の模様があしらわれていた。 「わあ、綺麗……」  手鏡の持ち手を握り締めたくるみは、思わず溜め息をついた。  まるでおとぎ話に出てくる手鏡みたい。  鏡そのものに魅入られていたくるみは、晴彦が押し黙っているのに気づいてハッとした。そしてその直後、晴彦が発する一言によって絶望的な気持ちになるのだった。 「それをよーく見てから、さっきの言葉を俺に言うんだな」  晴彦は心底冷たい目をしてその場を去っていった。

ガラス越しの恋

 二〇二〇年代初頭、サンパウロ州サンパウロ市。ペストやスペイン風邪、そしてコロナ禍。ほぼ百年に一度の割合で発生する感染症の世界的流行の真っ最中。
 事の始まりは、アジア諸国で最初の患者が見つかったことだ。水際対策も功を奏さずブラジル国内でも感染が広がり、政府から非常事態宣言が出された。

 若いホセが、サンパウロ市郊外の工場で自動車の整備工として働いていたある日のこと。
「この暑いのにマスクなんか、やってられないな」
 額から流れる汗を白い半袖のシャツを着た腕で拭いながら、ホセは勤務についていた。その夜ホセは、続けて出る咳や微熱の症状を覚えた。感染症の疑いはあったが、診療所で診察を受けたのは週末になってからだ。
 すぐにホセは、サンパウロ市内の大病院の隔離病棟に入院することが決まった。退院できるのはいつになるかわからない。入院した明くる日。ホセは病院側に許可を得て、恋人であるアウレアにしばしの別れを告げるのだった。
 アウレアが、隔離病棟一階の面会室に通された。白いタイルの貼られた床に足を踏み入れ顔を上げると、そこにホセがいた。アウレアは次の瞬間、胸の高鳴りと一抹の不安を同時に覚えた。
 二人はここひと月以上会っていないが、オンライン通話をしていた。それでもパジャマを着たホセは、アウレアの記憶にあるよりやつれて見えた。
 ホセとアウレアは向かい合ってパイプ椅子に座ったが、二人の間は透明の頑丈なガラスで仕切られていた。まるで拘置所などで面会する時のように。
「久しぶりね、ホセ」
「ああ……君は元気そうだな、アウレア」
 ホセの目の前に、黒いワンピースを身に纏ったアウレア。やや開いた襟元、剥き出しの腕、小麦色のなんとも健康的な肌。同じ部屋にいるのに触れられない、妙な焦燥感を覚える。
 ぎこちない沈黙を挟みながらも二人はポツポツと話しはじめ、そのうち元の二人のやりとりに戻っていった。

「付き合ってもうすぐ二年になるけど、俺たちが出会ったのはそれよりもう少し前だ。初めて君に会った日のこと、今でも覚えてるよ」
「私も覚えてるわ。大勢の中にいたのに、あなたの姿だけくっきり見えたみたいだった」
「君のお父さん、最初は俺たちが付き合うのを反対してたよな」
「あなたが経験豊富そうに見えたからじゃないかしら」
 別にそうでもない。いや、経験はそれなりにあるが、心を許したのはアウレアが初めてだ。
「付き合いたての頃かな、あれは。桟橋でソフトクリームを食べてたら、君が夢中でおしゃべりするうちにクリームが溶けて……」
 するとホセが、ポケットから出したハンカチでアウレアの指を拭ったのだった。その時アウレアは、初対面の時とはまた違った印象をホセに抱いた。
「観覧車に乗ったこと、覚えてる? 風の強い日で、笑っちゃ悪いけど君は怖がってたな」
 ホセはアウレアをからかうような口調でいった。
「それは、あなたがゴンドラを揺すったからじゃない」
 ホセが少し揺らしただけで、ゴンドラは風に煽られて大きくグラついた。それでアウレアは、ホセにしがみついたのだった。

 思い出しては赤面したり、胸が温かくなったり。ふいに、今は束の間の面会時間であることが頭をよぎり、アウレアは顔を曇らせた。
「思い出だけじゃなくてさ、また二人でどこか行こうよ。いつでも行けるよ。俺が退院するか、今の状態が落ち着くかして……」
「でも、いつになるか……」
 そこでアウレアは言葉を切った。二人を隔てているのはペラペラのアクリル板ではなく、強固で透明なガラス一枚。ガラス一枚といっても、とても硬い。それにアウレアには、何よりホセが遠く感じた。
 今のホセと私は、水中トンネルの内側にいる人間とその外を泳ぐ魚みたいなもの。お互いの姿は見えるのに、世界が違うみたい。
 アウレアの目が潤んだ。それに気づいたホセは躊躇うことなくマスクを口元から外し、アウレアに微笑みかけた。
「ホセ……」
「アウレア……」
 二人、どちらからでもなくガラスに手を伸ばした。透明なガラスを隔てて、お互いの手がぴったり重なる。ホセが硬いガラスに触れる指にグッと力を込めると、アウレアもほっそりした指先でガラスを押すように、ありったけの力を込めた。
 ここからの数秒、数十秒、一分。二人にとっては、永遠にも感じられたに違いない。

「そろそろ時間です」
 中年の女性看護師が、きっぱりした口調でホセに告げた。白い壁に掛けられた時計の秒針が、面会時間の終わりを無情に告げていた。先にアウレアが、ガラスからスッと手を離した。
 まだガラスに触れているホセの指、俯くアウレア。今度はホセが涙を堪えようと、唇をギュッと噛み締めるのだった。
 マスクとフェイスガードでほとんど表情の見えない看護師は、背筋を伸ばして面会室の出口付近に立っていた。もう少し一緒にいさせてやりたいけど、規則だし仕方ない。それでも看護師は、ホセにそれ以上声をかけなかった。
 やがてホセは顎の下に下がっていたマスクを掛け直すと椅子からゆっくり立ち上がり、座ったままのアウレアに一度頷いてみせ、それから面会室を後にしたーー。