ライブラリー キャラメルラテ

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ジュベール族の娘たち

 レビ師は仰った。「地に満ちよ」

 またある時は、こう仰った。「我が民族の血を絶やしてはならぬ。なんとしてもこの地に根付き、叡智を結集し、それらを子々孫々まで未来永劫受け継ぐのだ」

 ジュベール族と呼ばれる民族の歴史は、迫害と流浪そのものだ。荒涼とした赤い大地や不毛な砂漠に覆われた大陸で勃発した十年戦争がようやく終結し、生き残ったジュベール族の民は世界中に散り散りになった。レビ師が率いるある集団は東の大陸に移り、セレスタンという国の国土の隅、河川を隔てた土地に入植した。ジュベール族とセレスタンの国民とは宗教が異なるが、入植地はセレスタンが放棄した荒れ地だったため、目に見える大きな紛争は起きなかった。

 宗教指導者であるレビ師の先の進言は、ある教えとなって民衆の間に広まることとなった。「女に学などいらぬ。女は夫に従い、家庭を守ることこそ至上の喜びだ。娘たちにもそう教え込めばいい」

 ジュベール族の娘がいた。彼女の名はエイプリル、誕生日は四月。五人きょうだいの末っ子、三女。一家で入植地を転々としたこともあったが、今はセレスタンの国土と入植地を隔てる河川より北東に位置する、赤い煉瓦造りの屋根の家々が目を引く小さな町に落ち着いている。

 父は軍の幹部で、家に帰る頻度は少ない。長兄は成人男性に課せられる徴兵を二年前に終え、正式に入隊した。長姉は絨毯商と結婚して隣町に住んでいる。次兄が町の学校にいる時間帯、エイプリルは母の手伝いをし、次姉と遊び、たまに家の周囲の鋪道をうろついた。

 初等教育の三年間は学校に通ったため文字は読めたが、父や長兄らの愛読書を読むことはできなかった。日常生活で数字を用いることはできたが、複雑な数式は目にしたことがなく、物理の法則など知る由もなかった。だが、それらを疑問に思うことなく、小さな世界で日々満たされていた。

 そんなある日。長兄が訓練中に怪我をしたという報せを受け、エイプリルは母と共に、町で一番大きな病院を訪れた。建物の中に入ると、廊下と各病室の壁はアイボリー色で、フローリングの床にはジュベール族にとって生業と言える手織りの鮮やかな模様の絨毯がところどころに敷かれていた。

「大袈裟だな、母さん。エイプリルまで連れてくるなんて。別にたいした怪我じゃないのにさ」

「心配したわよ、実弾を扱う訓練の途中だって聞いたから」

「ちょっと脚を怪我しただけだよ」 

 母と長兄が話し込み、退屈したエイプリルはそっと病室を抜け出した。廊下の奥まった場所に、入口の扉が開きっぱなしになった病室があった。エイプリルがそっと室内を覗くと、六台並んだベッドのうち、窓際の一台にだけ患者がいた。彼はベッドの上に起き上がった体勢で、何やら分厚い一冊の本を読んでいた。

「誰?」

 気配に気づいた彼が声をかけると、エイプリルは慌てて廊下に姿を隠した。だが好奇心を覚えたエイプリルは、再びそっと顔を覗かせた。

「どこの子なの? 入院してる子じゃないよね」

 エイプリルは黙って彼の手元の本に目を落とした。彼が濃い緑色の表紙の本のタイトルを口にしたが、エイプリルはきょとんとしたままだった。

「面白い本なんだ、ちょっとおいでよ」

 エイプリルは恐る恐る室内に足を踏み入れた。

「僕はちょっとした手術をしたんだ。退院まで、君の兄さんより少しかかると思うよ」

「兄さんは、退院したらすぐに軍に戻っちゃうの」

「そうなんだ。僕が戻るのは、大学の研究室だ」

「季節に乾季と雨季があって、乾季ではどのような植物が育つのか。一面が砂に覆われた砂漠に咲く花は、どんな花なのか」 

 それ以来、エイプリルは病院を訪ねる度、アイザックの病室に足を運んだ。アイザックは部屋に置いてある本をめくり、エイプリルが興味を示しそうな内容を噛み砕いて教えた。

 ある日、エイプリルは母に尋ねた。「どうしてこの土地の女の子は、上の学校に上がれないの?」

「そんなこと聞いたらいけません」

「砂漠ってどんなところなの? 私、砂漠も蜃気楼も見たことない。この町の赤い煉瓦の屋根なんて、いつも同じだよ」

「エイプリル……」

 数日後、アイザックは部屋を訪れたエイプリルの目をじっと見てこう言った。

「君は驚くほど物事を知らないが、一番気の毒なのは、この世界の広さを知らないことだな。十年戦争があった、ここより西の大陸。僕は一度訪れたことがあるんだ。一面が乾いた大地で、ところどころに草や痩せた木が疎らに生えていて。それと、赤銅色の大きな岩。想像できるかい? 僕らの住むこの土地の向かい側にある国、セレスタンは知ってるよね。国境の川は見たことある? 大きな川。海はそれよりずっとずっと広くて、どんどん深くなるんだ。ここからどこか違う大陸や島に行くには、船で海を渡るんだ。歩いてもバスに乗ってもたどり着けやしない。いいか、君はまだ何も知らないも同然なんだ」

 ずっと先の未来の話。エイプリルは親に勧められるままに結婚し、もうけた一人娘のサイーシャが入植地の町で、初等教育以上を受けられるようあちこちに掛け合った。やがてサイーシャは町を出て、今は国家として承認されることとなった入植地を出て、世界を見て回った。帰国後は苦難の末に高等女子学校を開校し、民族の女子教育の可能性を拓いた第一人者と呼ばれるようになったのだったーー。