ライブラリー キャラメルラテ

オリジナル小説書いてます

無情の夢 番外編

おとぎ話なんて、はじめからなかったのかもしれない。魔法のドレスもガラスの靴も、かぼちゃの馬車も大きなお城もーー。  肌を刺すように冷たい真冬の風に吹かれ、中村くるみは白い息を吐いた。夕暮れ時の薄暗い帰路を、くるみは急ぐことなく歩いていた。  くるみは今年で三十六歳になるが、父、章一を二年前に癌で亡くしていた。工房はその前後で閉め、実家は更地にして売りに出した。  現在、くるみはアパートで一人暮らししながら、市内の総合病院の清掃のパートに出ているのだ。友人の恵子と千枝はそれぞれ結婚して家庭を持つなどし、ここ数年ですっかり疎遠になっていた。  くるみが魔法の国で魔女のリッツに魔法をかけられて一度デートをしたことのある相手、俳優の佐山晴彦はというと、ゴールデンタイムに放送中の刑事ドラマ「地平線にほえろ」にレギュラー出演中。コマーシャルにトーク番組やラジオのゲストなど、東活に所属して会社が制作する映画に出演していた頃より、多彩に活動していた。  晴彦がくるみに、恋人ができたと告げたのは十六年前。相手は当時、東活に所属していた駆け出しの女優。二年後二人は入籍し、くるみはその記事を週刊誌で読んだ。  彼女の本名は佐山教子(きょうこ)となったが、女優としての名は春川響子。清純派らしい美貌に加え演技力が評価され、近年では連ドラに二時間ドラマ、映画に至るまで、脇役ながら様々な役柄をこなしている。  晴彦は今年で四十三歳、教子は三十七歳になる。夫妻に子供はいないが夫婦仲は順調のようで、二人がトーク番組や雑誌に揃って出るのをくるみは時々目にしていた。  明日は金曜か。明日も仕事だけど、夜九時から「太陽にかけろ」がある。楽しみだな、早く明日にならないかな。  パステルグリーンのスニーカーを履いた足元に目線を落としていたくるみは、顔をパッと上げた。くるみが人気の少ない駅前の大通りを歩いている、ちょうどその時だった。見覚えのある男の姿が目に入ったのは。  眉尻にかけて少し曲がって上がった黒い眉、伏し目がちでいると余計に長く見える睫毛。鼻が高く、彫りの深い顔立ち。濃いグレーのコートに黒いズボンといういでたちで煙草を吹かす長身痩躯の男、彼こそが佐山晴彦、本名は佐山尊志だった。 「佐山さん……? 佐山晴彦さんですよね……?」  くるみは咄嗟に声をかけた。 「ああ……」  既に閉められた店舗のシャッターにもたれていた晴彦は煙草を口元から離し、何気なくくるみを一瞥した。  そうだ、佐山さんは今や売れてる俳優なんだし、私のことなんて忘れているはず。こんなふうに街で声をかけられるのも慣れているだろうし。 「私、中村くるみです。大分前になりますけど、魔法の国で魔法にかけられて、佐山さんと一度銀座に行ったことのある……」 「中村くんか」  晴彦がハッとしてくるみの顔に目を向けると、くるみは俯いた。  やだ、私ったらあれから何も変わってないんだ。佐山さんにアンティークの手鏡を手渡された時から。佐山さんは相変わらず素敵なのに。テレビで観るより少し疲れた感じだけど。そういえば佐山さん、なんだかやつれたみたい。仕事が忙しいのかな……。 「そうだ、地平線にほえろ、観てますよ。視聴率もいいし、現場もさぞ熱気があって……」 「ああ」  敢えてにこやかにするくるみを前に、晴彦は苦虫を噛み潰したような複雑な表情を見せた。くるみが心配そうに黙っていると、晴彦が少しずつ話しはじめた。  昭和四十年代に入る頃には、東活はもとより国内の映画産業そのものが斜陽となっていた。人々は家庭用テレビの普及により、かつてのように映画館に足を運ばなくなっていたのだ。 東活の女優だった雪原小枝と結婚した岩瀬隆二をはじめ、映画を主戦場にしていた俳優たちは、テレビドラマに活路を見出すこととなった。  晴彦は、自分が刑事ドラマにレギュラー出演していることがしっくりこないのだとくるみに言った。 晴彦は主演ではないが見せ場があり、印象的な役だと思っていたくるみは、その言葉を意外に受け止めた。 「そりゃまあ、東活にいた頃より今の方が顔は知られているし。コマーシャルに出るのもそこまで気は進まないけど生活のためでもあるし。でも、時々ふと思うんだ。俺はこういうことするために役者になったのかって」 「佐山さん……」  どうしよう、こんな時なんて言ったら……。 「でも、これからも俳優を続けられるんでしょう? 奥様も活躍されてるし、夫婦で共演とか……」 「教子か。お互い撮影だの付き合いがあるだのって、最近じゃゆっくり話す間もないよ」  すっかり自信をなくしたように見える晴彦を前に、くるみは何も言えなくなった。  時を同じくして、東京メトロ沿線のとある街。よく当たると評判の占い師の老婦人が路上の片隅で、段ボール箱の前に置いた折り畳み椅子に腰掛けていた。占い師の前には大勢の人々が行き過ぎていたが、およそ一時間前、午後五時過ぎに最後の客が帰ったきりだった。 「今、いいですか?」  無地の黒いキャップを目深に被った一人の女性が、占い師の元に近づいてきた。占い師は手にしていたタロットカードの束を傍らに置き、女性の姿を見てあることに気づいた。 「失礼ですがあなた、女優の春川響子さんでは……」  女優の春川響子、本名は佐山教子。テレビで観るより小柄で細身、ぴったりしたジーンズにカーキ色のブルゾンを着込むという地味な格好だったが、どことなく目を引く雰囲気が感じられた。 「ええ……」  教子は小さな声で呟くように答えた。 「お気になさらずに。有名人でも誰でも、占いは平等ですから」  教子はそれを聞いてクスッと笑った。 「私ではなく、主人を占ってほしいんです」 「佐山晴彦さんね、地平線にほえろ、私もたまに観ていますよ」 「ええ、それはどうも」  占い師は、教子が向かいに腰掛けるのを待って、ゆっくり口を開いた。 「あなた、何か悩まれているようね」  教子は黙っていた。 「ご主人の女性関係とか」  それを聞くなり、教子は首を左右に大きく振った。 「それはないです、それだけは決して。主人はそれだけは一切……」 「それは失礼」  二人の間に、暫し沈黙が漂った。占い師はタロットカードの束を取り出し、手際よくカードを切った。占いを始めるという合図だ。教子は、晴彦の俳優としての今後の展望を占ってほしいと、占い師に告げた。  晴彦が、今の自分が理想の俳優像とかけ離れていると苦悩していることに、教子は気づいていたのだ。占い師がボールペンを手渡すと響子はそれを手に取り、白い紙に晴彦の本名と生年月日を書いた。 「佐山尊志……。こういう字を書くのね、いい名前だわ。いっそ、本名に戻して活動してみたらどうかしら。姓名判断してみるまでもなく、運気の良さそうな名前だし」 「いえ、それはどうでしょう。晴彦は、主人が東活で映画デビューする際、会社の方に付けていただいたんです。沖田晴彦にあやかるって言って。ご存知ですか、沖田晴彦。五十年ほど前に早世して、今は一人娘の沖田茉弥子が女優をしています」 「ええ、覚えていますとも」  占い師は戦前に活躍した二枚目スター、沖田晴彦の顔を思い起こした。占い師は昭和のはじめ、家族で彼の主演映画を観に行ったことがある。日本人離れした彫りの深い端正な顔立ち、上品に見える身のこなしを今でもはっきり思い起こすことができる。  なるほど。だけど、佐山晴彦の輝きは佐山晴彦にしか出せないはず。沖田晴彦の代わりが誰もいないように。  占い師と教子は二人とも黙り込んだ。 「佐山さん。私、実は二年前に父を癌で亡くして、母は高校生の時に亡くなっていて……」  くるみが切り出すと、晴彦は僅かに眉を寄せた。 「今はアパートに一人暮らしして、病院の掃除のパートに出てるんです。なんていうか、すごくパッとしなくて、将来のことを考えるとなんだか絶望的でもあって……」  くるみはペラペラと話しはじめた。  佐山さんにどう思われてもいい。これだけは伝えないと……。 「だけど私、毎週金曜、地平線にほえろを観るのが何よりの楽しみなんです。雑誌でもテレビでも、佐山さんを見かけるのを本当に楽しみにしてて……」  晴彦は真顔で聞いていた。 「佐山さん、俳優の仕事は、私たちに夢を与えることなんです。佐山さんはそのままで十分素敵だと、私は思います」 「中村くん……」 「それに私、時々あの夜を思い出すんです。魔法で変身していたとはいえ、佐山さんとクリスマスツリーを見たりダンスホールに行ったなんて、一生の思い出ですよ」  くるみがそう言って頬を赤くすると、晴彦はフッと笑った。 「そうか、俳優の仕事は夢を与えること、か……。なるほどな、俺はどうやら初心を忘れていたみたいだ」   晴彦はニ度三度、小さく頷いた。 「頑張ってくださいよ、佐山さん」 「ああ、君のためにもね」  二人は顔を見合わせて微笑みあった。十六年前、東活の撮影所で話をした時より、ずっと晴れやかな顔で。この時ばかりはくるみも、晴彦の顔にまっすぐ目線を合わせた。それから二人はそれぞれの家路に着いた。  その頃、占い師はタロットカードで晴彦の社会運を占っていた。 「そうね……。タロットカードによると今のご主人は、迷いの渦中にいるみたいね。目の前の壁を乗り越えれば、また違った魅力を見せてくれるはず。そうすれば道も自然に拓けてくるはず。そうそう、夫婦仲はずっと円満ね」  占い師の最後の言葉に、教子は気恥ずしそうにした。 「今日はどうもありがとうございました。改名の話、主人にも伝えてみます」  胸のつかえが下りた教子は料金を払い終えるとスッと立ち上がり、軽くお辞儀をした。辺りはとうに暗くなっていた。教子の後ろ姿を見送りながら占い師は、今夜はこれで店じまいだと思った。  帰りの電車で立ったままドア付近に寄りかかる晴彦、空いていた座席に腰かけて一息ついた教子。お互い、帰ったらゆっくり話してみようと心に決めていたーー。  後日、晴彦はマネージャーと共にプロデューサーの元を訪ね、「地平線にほえろ」の刑事役を降りることを自ら申し出た。プロデューサーは渋い顔をしながらも最後には了承し、晴彦の役の刑事は、殉職することなく異動になって出番を終えることが決まった。  時を前後して、テレビ局内を歩く晴彦に声をかけた人物がいた。  半年後、都内某所。佐山晴彦は記者会見に臨んでいた。演出家である二宮行雄が演出する舞台、「真夏の夜の夢」で主演をつとめることが決まったのだ。 「ええ、今回はこのような大役をいただけた上、二宮さんに演出していただけるとは光栄です。僕は昔から、シェイクスピアの舞台劇に憧れていたもので」 「これから本名で活動を?」 「ええ、僕はこれから、佐山尊志として勝負すると決めたので」  カメラのフラッシュが光るなか、晴彦はマイクを手に堂々と答えた。  とある総合病院の、広々したロビーの一角。病院の名前の書かれたえんじ色のエプロンを身に付けたくるみの視線の先には、ブラウン管テレビの画面があった。記者会見での晴彦を目にしながらくるみは、チケットを取ってその舞台を観に行ってみようと思い立ったのだったーー。