ライブラリー キャラメルラテ

オリジナル小説書いてます

 俺の話を聞きたい?それでは話して差し上げようーー。  俺の目の前には一人の老人がいた。サンタクロースのように白く長い服を着て、木の杖をついた老人だった。俺は彼に向かって話しはじめたーー。  スランプもスランプ、スランプ中のスランプとはこのことか。出だしの一行すら浮かばないなんて、俺の才覚もここまでか。申し遅れました、俺の名前は櫛田敬男。五十代まで残り一年、職業は一応小説家の端くれ。地方出身、都内在住。奥さん?そんなこと聞いてどうするんだよ。まあいいや、バツイチ現在独身彼女なし。

 俺がとある小説の新人賞で特別賞を受賞した時も、勤めていた会社に三十歳目前で辞表を出した時も、応援してくれていた彼女がいた。後に籍も入れたよ、子どもはいなかったけど仲良くやっていけると思ってた。数年後、彼女が男と逃げちまうまでは。それ以来、女なんてゴリゴリだ。

 いや、そうでもないな。言っておくが俺は一七ニセンチほどの身長に体重は若い頃から変わらない標準体重。別に色男でもなんてもないが、笑った顔が可愛いとか言われたことはある。離婚後は出版社の女性とかバーのマダムとか、要するに後腐れない気軽な付き合いなら、何度かしてきた。でも今はスランプなんだ、スランプ。

 俺はノートパソコンの電源を切ってフタを閉じ、メガネを外して眉間を親指でグッと押した。パジャマからカーキ色ポロシャツとジャケット、黒のスラックスという軽装に着替えた俺は、自宅マンションを出た。

 これからどこへ行こう、行きつけのバーにでも行くか。その店は自宅から歩いて十五分ほど、駅前の繁華街の片隅、雑居ビルの地下にあった。店の明かりは居心地いい仄かなオレンジ色、俺は六、七年前から執筆の合間に訪れていた。

 通ううちに指定席らしきものができて、俺の場合はカウンター席の壁際、店内で最も落ち着く場所だ。そこに座り、最近ハマっているカクテルを注文した。年配のマスターは俺を見て愛想いい笑みを浮かべた。

 マスターは顔馴染みだが、バーテンはしばしば入れ替わっている。今は三十代半ばぐらいの美男子、いや、今はイケメンっていうのか。とにかく俺の長話にも時々付き合ってくれるいい男だ。俺は小説のネタ探しも兼ねて、持ってきた週刊誌をパラパラめくった。それにしても下世話な記事ばかりだな。

「カシスオレンジ下さい」

 女の子の声と誰かがカウンター席に着く気配がしたが、俺はそちらに目を向けることなく週刊誌に目を通していた。

 数分後。

「あの、何飲まれてるんですか?」

 俺は顔を上げて、右側の壁と反対側を見た。二十代後半くらいの女の子が、カシスオレンジのグラス片手に見ていた。いや、待てよ。俺は咄嗟に店内を見回したが、カウンター席には他に中年男女一組だけで、女の子の可愛らしい顔は確かに俺に向けられていた。

「ああ……。これはね、モッキンバードっていうんだよ」

 女の子の頭にクエスチョンマークが浮かぶのが見えた。

テキーラを、ミントリキュールとライムジュースで割ったカクテルなんだ。ジュースは、レモンでもライムでもどっちでもいいんだけど。テキーラは強いから、多めのジュースで割るといいよ」

 バーテンからの受け売りだったが、俺はよどみなく説明した。

「ちなみにモッキンバードって、メキシコにいる鳥なんだけど、別に羽がカクテルみたいに緑色ってわけじゃないんだ」

「そうなんですか、あんまりキレイだから気になって。ありがとうございました」

「そうそう、変わったカクテルぁし、そりゃ気になるよな」

 俺は女の子の丁寧な受け答えや、白いニットに膝が隠れるくらいの丈の茶色いスカートといった服装に好感を抱いたが、勘違いしないよう自分に言い聞かせ、再び週刊誌に手を伸ばした。

「あの……。もしよかったら、もう少しお話しません?カクテルの話、面白かったし……」

 いやあ、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな。俺はすっかり浮かれていた。

「名前は?俺は櫛田敬男」

「麻希っていいます」

 彼女は俺の名前を聞いても顔色一つ変えなかった。

「麻希ちゃん? あのさ、俺の小説知らない? 夜霧の街角とか再会のあの日にとか、エッセイもあってさ」

「えっと……。知らないです、ごめんなさい」

「いや、いいんだ……」

 ああ、最高傑作が……。暫くしてから麻希ちゃんは、自分の話を始めた。勤め先のアロマ専門店のこと、何年も前に別れた彼氏のこと、家族のこと。その落ち着いた声のトーンは、別れた妻を思い出させた。

 少しずつ、記憶が甦る。彼女の名前はもちろん、生年月日に出身地。いや、そんなありきたりなことばかりじゃない。彼女の好きな映画や音楽。

 付き合っていた頃、何度か映画館でデートした。女の子だし、てっきりキャラメルポップコーンが好きだろうと思っていたら、映画を観ながらものを食べない主義だと言って、ブラックコーヒーを飲んでいた。俺の方がブラックが無理でキャラメルマキアートを頼んだら、クスクス笑われたっけ。

 それから好きな作家。そもそも彼女と付き合うきっかけになったのは、会社の親睦会だった。ある秋晴れの日曜日、同僚らが公園の芝生にレジャーシートを敷いてくつろぐなか、俺は隅のベンチで文庫本を読んでいた。そんな時、彼女が話しかけきたんだ。好きな作家が一緒で、俺が文学賞に応募している話に目を輝かせて……。

 うまくいってるはずだった。俺が締め切りに追われて忙しかろうと、資料集めや雑事を手伝ってくれていた彼女をないがしろにしようと。彼女は何も言わなかった、離婚届を置いて急に姿を消して。それまでに兆候はあったかもしれない、気づかなかった俺が傲慢だっただけだ。

 静かな空気を感じた俺は、ハッと顔を上げて右側を向いた。いつの間にか麻希ちゃんは話をするのをやめていたのだ。俺に気づくと、口元でにっこり笑ってこう言った。

「お水でも飲みます?」

「ああ、そうするよ……」

 透明なグラスに注がれた冷たい水を一気に飲み干すと、酷暑の日にシャワーを浴びるような、身体全体が甦る気がした。 

「そろそろ出ようか……」

 立ち上がると頭がクラクラする、対称的に麻希ちゃんは涼しい顔だ。ビルの外に出ると、十月にしては夜風が冷たい。

「敬男さん、私……」

「麻希ちゃん……?」

 麻希ちゃんがジャケットの裾をギュッと摘んだ。何年か振りに心臓が大きく跳ねるのがわかった。

 麻希ちゃんの向こうにネオンが見える。信号機みたいな赤や黄色、たわわに実った果物みたいなピンク色、紀行番組で見たことのあるカメルーン熱帯雨林みたいな緑色、アクアマリンの宝石みたいな水色。俺の視界の奥で色とりどりのネオンが、キラキラと光る川面のように揺れていたーー。

「それで、話の続きは?その女の子とはその後どうなったんだ?」

 老人はワクワクしながら俺に聞いた。俺は老人に言った。

「意地悪なこと聞きますな、神様。あなた、天国の入り口で俺が来るのを待っていたんでしょう」