ライブラリー キャラメルラテ

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無情の夢②

なんで私、佐山さんにあんなこと言っちゃったんだろう。もう消えてしまいたい……。

 晴彦の言葉にくるみは、目の前が暗くなるような感覚に陥った。くるみは撮影所の最寄り駅に戻る道とは反対方向を、ふらふら歩いた。辺りは一段と暗くなり、気がつくとくるみは大きな河川に架かる橋の上で、欄干に両手を置いて佇んでいた。数日前の大雨で増水した川が、ゴーゴーと音を立てて流れていた。
 ここから濁流めがけて飛び込めば……。
 その時だった。一羽の蝶々が鮮やかなレモンイエローの羽を大きく広げて、くるみに向かって飛んできたのは。
「な、何……? この蝶々……」
 くるみはギョッとした。
「久しぶりね、あなた」
 蝶々が話しかけてきて驚いたが、まるで蝶々がくるみが早まったことをするのを止めに来たように見えて、くるみは少し冷静になった。
「私のこと覚えてない?」
 蝶々がくるみに尋ねた。蝶々のレモンイエローの羽を見ているうちに、二ヶ月前の出来事がくるみの脳裏に蘇ったーー。
 
 都内にも秋めいた風が吹くようになった十月下旬。くるみは章一に頼まれて少し遠くの金物屋に出かけた帰り、道端で大きな蜘蛛に睨まれていた蝶々を助けたことがあった。
 やだ、もじゃもじゃして気味悪い蜘蛛。このままだと蝶々が……。
 くるみが木の枝でつつくと、蜘蛛はサーッと逃げていった。この時も蝶々はくるみの周りをヒラヒラ飛び、夕暮れの空の彼方に姿を消したのだったーー。
 
「私は魔法の国から来た蝶々なの。あの時、蜘蛛から助けてくれたあなたを探していたのよ」
 魔法の国という言葉をくるみは半信半疑魔法の国という言葉を、くるみは半信半疑で聞いた。
「ねえ、何があったの? 悲しそうな顔して……」
 蝶々は黒い触角を揺らしてくるみに尋ねた。さやかや麻衣にも言えそうにないと思っていたくるみは、蝶々にこれまでの出来事を話した。
「わかったわ、それじゃ魔法の国に連れていってあげる」
 
 次の瞬間、くるみと蝶々はあっという間に暗室のような真っ暗な部屋にワープしていた。くるみの目にかろうじて輪郭が見える蝶々が触角を揺らすと、天井からぶら下がったチューリップの花を逆さにしたような形のランプがパッと点いた。
 「ここは魔法の国の国王が住まう一室なの。人間が来ることは滅多にないのよ」
「そうなの……」
 いつの間にかくるみの目の前に、年齢不詳に見える一人の女性が立っていた。その女性は一六〇センチ台半ばくらいの身長。絵本やファンタジー映画で見るような紫色の長いローブを着て、茶色い木の杖を手にしていた。女性は濃いめの化粧を施した顔で、にこやかにくるみを見ていた。
「あらあら、この娘なのね。うちのラトリスを助けてくれたのは」
 女性の声は、くるみの予想を裏切るように低く掠れていた。おまけに喉仏が突き出ていたが、くるみは気にしないことにした。
「ラトリスから話は聞いてるわ。お礼に一晩、魔法をかけてあげる」
 魔法使いはリッツと名のり、蝶々はラトリスといった。リッツに促されたくるみは、美容室に置いてあるような大きな椅子に腰掛けた。くるみの目の前には、これまた美容室に置いてあるような大きな鏡。
 やだ、佐山さんに言われたことを思い出しちゃう……。
 くるみがふと顔を曇らせると、リッツがくるみの手に自分の手をそっと重ねた。くるみを安心させる温かさだった。 
「でもあなた、中々勇気があるのね。好きな人に好きって言えるなんて、すごいじゃない」
「でも私なんかに好きって言われて、佐山さんは迷惑だったんじゃ……」
「そんなことないわよ。気持ちを伝えられる相手がいるだけ、素晴らしいことだと私は思うわ」 
 リッツが意味深な顔をして黙り込むと、くるみは心配そうに、鏡に映るリッツを見た。
「私も思い出すわ、竹中くんのこと……」
 リッツはポツリと呟いて、懐かしそうに語りだした。
「私は若い頃、国王の命令で人間界に留学していたことがあるの。その時、高校の同級生だったのか武中秀一郎くん。美男子で成績が良くて、女生徒に人気があったわ。それにどこか超然とした雰囲気があって、男子からも一目置かれていたのよ」
 くるみはリッツの話に聞き入っていた。リッツはくるみの顔や髪を触りながら話を続けた。
 「武中くんと同じ空間にいられて、たまに声をかけてもらえるだけで私は幸せだったわ。それに私は魔法使いだし、人間と恋に落ちるなんてご法度。結局、武中くんに好きって打ち明けることはなかったのよ」
「そうだったんですか……」
「それからすると、あなたはいいわよ。その佐山って男に、少なくとも気持ちは伝えられたんだから」
 リッツは調合したラベンダー色の液体を霧吹きでくるみに吹きかけ、木の杖を一振りして呪文を唱えた。
「佐山をこれであっと言わせるといいわ」
 くるみは閉じていた目を恐る恐る開け、こわごわと鏡を見た。くるみの目の前には、これまで見たことのない美女がいた。
 これが私……? なんだか嘘みたい……。
 「一晩だけよ、その姿なのは」
 リッツがくるみに念を押した。くるみはリッツの言葉を耳に入れながらも、意識は鏡に映る美女にあった。
 憧れの雪原さんに似てる……。 
くるみが着ていたロングドレスはオレンジ色のシンプルなデザインで、真珠のスパンコールが散りばめられた魔法のドレスだった。おまけに身体全体膜がかかっているように見えた。
 くるみがずっと身に着けていた斜め掛けのポシェットは、光る素材でできたハンドバッグに変わっていた。おとぎ話で主人公が舞踏会に持っていくようなバッグだとくるみは思った。 
「どう?素敵でしょう」
「とってもかわいいわよ」
 リッツはにこやかに言い、ラトリスは嬉しそうにくるみの周りを飛んだ。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」 
 鏡に見惚れるくるみに、リッツがフッと微笑んだ。
「さあ、立って。次の魔法が肝心なのよ」
「なんですか?」
 くるみはスッと立ち上がり、リッツに尋ねた。
 なんだか身のこなしも優雅になったみたい。雪原さんや綺麗な女優さんみたいに……。
 「自信を持つこと。そうでしょう?」
「リッツさん……」
「そうよ、頑張ってね」
「ラトリスも、二人ともありがとうございました」
 
 くるみはラトリスの魔法によって、再び人間界に戻ってきた。魔法の国にいる間とは時間の経過が異なっており、くるみが晴彦に手鏡を手渡された日の翌日の夕方になっていた。
 その足で撮影所に出向いたくるみは、周囲がざわめくのを感じた。
 人々の羨望の眼差し、息を飲む声。雪原さんみたいな女優さんって、こんな感じなんだ……。
 スニーカーの方が慣れているくるみだったが、不思議にガラスのハイヒールで颯爽と歩くことができた。俳優や男性スタッフ、または女性スタッフとは違い、何人かの勝ち気そうな女優は敵意にも似た鋭い視線をくるみに向けてきた。くるみは怯みそうになったが、胸を張り歩き続けた。
 群集の中、くるみは探していた顔をすぐに見つけることができた。それは晴彦の顔だった。晴彦は、ベレー帽を被った監督らしき年配の男性や若い男性スタッフと数人で談笑していた。
 「おい、誰だろう。あの美女……」
 男性スタッフの言葉に顔を上げた晴彦は、くるみを一目見てパッと目を煌めかせた。魔法で美女になっているとはいえ、くるみの胸中は複雑だった。晴彦がくるみにゆっくり近づいてきた。
「君、俺のこと知ってる? 東活で俳優やってる、佐山晴彦」
「ええ、知ってるわ……」
 くるみは晴彦の目をじっと見て返事をした。ロマンス映画でヒロインが、相手役のヒーローに微笑みかける場面を意識して。
 
 それから話は早かった。晴彦とくるみは二人、夜の銀座に来ていた。晴彦は黒いスーツに藍色のネクタイを締め、黒いオーバーを着ていた。晴彦にはやはり黒が似合うと、くるみは思った。
 銀座の大通りのビルの前には、三階まで届きそうな高さのクリスマスツリーがあった。ツリーの緑色の葉からは赤と白の縞模様の靴下、カラフルなスノーボール、雪だるまや雪の結晶の飾りなどがぶら下がっていた。
「明後日はもうクリスマスイブだね。今年はここらにも雪が振りそうだ」
 ツリーに見惚れるくるみに、晴彦が声をかけた。
「子供の頃、雪だるまを作ったことがあるわ」
「俺もあるよ。でも、次の日には溶けてるよね」
 晴彦が笑った。二人は近くのダンスホールやってきた。流れていたのは落ち着いたクラシック音楽。やや仄暗い照明の下、何組かのカップルがダンスを楽しんでいたが、互いの世界に夢中になって他のカップルには無関心に見えた。晴彦の右肩にそっと左手を添えたくるみは、音楽のゆったりしたテンポに合わせて身体を揺らした。
 向かい合って踊るなんて映画でしか観たことないけど、なんとか形になってるかな……。それにしても佐山さんと踊るなんて、変な感じ。
 
 一旦ダンスを終えたくるみは外の空気を吸おうと、誰もいない二階のテラスに出た。
「ここにいたんだ」
 くるみが夜空を見上げていると、晴彦もやってきた。夜空に煌めく満天の星、目の前にいる佐山晴彦。くるみが空想していた通りの光景だった。晴彦の微笑んだ顔も、怖いくらい空想と同じだった。
 これもリッツの魔法……? なんだか現実味がない……。
 くるみはシャンパンを飲み干した後のような、ふわふわした感覚でいた。テラスの白い柵に片手を置いた晴彦は、もう片方の手をくるみの右手の甲に重ねた。
「もっと君を知りたい……。一晩、僕と過ごさないか……?」
 やだ、佐山さんってこんな風に女の人を口説くの……?
「ちょっと私、じ……実家に電話してきます……!」
 晴彦の手を振りほどいたくるみは、誰もいない廊下の片隅に駆け込んだ。
 とにかく深呼吸して落ち着こう。あれ? 鞄がない。テラスに置いてきちゃったんだ。どのみち魔法は一晩限りだし、もう帰ろうかな……。
「君……。これはどういうことなんだ」
 テラスに戻ったくるみに晴彦が突きつけたのは、アンティークの手鏡だった。
 しまった、佐山さんから貰った手鏡、さっき鞄を落とした拍子に滑り落ちたんだ。
「それは、その」
「君はまさか、よく見学に来ていた子か。名前は確か、中村くるみ」
 重い沈黙が流れた。くるみが小さく頷くと、晴彦は信じられないといったように片手で頭を押さえた。
「あ、あの」
 くるみは躊躇いながら顔を上げた。晴彦がくるみを見る目には、軽蔑の念が強く込められていた。
「危なかったよ、眼中にもない女を口説くところだったとは。もう俺の前に姿を見せないでくれないか?」
 
「ねえ、リッツ」
 魔法の国のお城の一室。大きな肘掛け椅子にゆったり腰掛けるリッツに、ラトリスがヒラヒラ飛びながら話しかけた。
「何? ラトリス」
「あの女の子、今頃どうしてるかしら」
「気になるのね、ラトリス。残念だけどあの娘には、もう会うことはないと思っておいた方がいいわ。ラトリスを助けてくれた、お礼に一晩魔法をかけてあげたんだから。それに人間には深入りしないよう、国王にも言われてるでしょう」
「そうね……まあ元気だといいけど」
 紫煙をくゆらすリッツの回りを飛びながら、ラトリスはくるみの顔を思い浮かべるのだった。