ライブラリー キャラメルラテ

オリジナル小説書いてます

無情の夢①

十一月中旬の冷たい夜風が肌を突き刺す午後九時過ぎ。東京メトロ沿線、駅前の大通りを一本脇に入った舗道を、一人の男が歩いていた。年格好は二十代後半といったところ。まっすぐ上がり、眉尻にかけて曲がった黒い眉、同じ色のはっきりした瞳。やや東洋人離れした高い鼻に形のいい唇。男は彫りの深い端正な顔立ちの持ち主だった。  黒いズボンと靴を履いた長身痩躯の男は、渋めのカーキ色のオーバーのポケットに両手を入れてまっすぐ前を見据えて歩いていた。 「ちょっと、そこのあなた」  豊かな黒髪をなびかせる男を呼び止めたのは、占い師の老婦人だった。小柄な占い師はネイビーブルーの布を敷いた段ボール箱を路上に置き、神秘的な水晶玉の前に座っていた。水晶玉占いの他にはタロットカード占いや手相占いなど、いずれもよく当たると評判だった。  えんじ色のスカーフを顔の周囲にぐるりと巻いた占い師は、奥まった目で男をジロリと見た。男は占い師の前に立ち止まると首を左右に動かし、往来に他には誰もいないことを確かめた。その悠然とした動作からは、育ちの良さが窺えた。 「俺?」  男は占い師に尋ねた。男が訝しげに眉を動かすと、目鼻の造形が余計際立った。 「そう、あなた中々の美男子だけど、女難の相が出ているから気をつけた方がいいわよ」 「はあ」  占い師は声に警告の色をにじませたか、占いなど頭から信じていない男はぞんざいに返事しただけだった。  なんだ、この占い師。この俺に女難の相だと。そんなこと起きるわけないだろ。  男はそのまま帰路に着いた。これから男の人生に、ある変化が起きるとは知らずーー。 「これでいいかな……」  その翌日。都内郊外下町、個人商店が軒を連ねる一角。中村くるみは自宅二階の自室でタンスの引き出しを開け閉めしながら、身支度に迷っていた。  今着てる白いパーカーとデニムのズボンは普段着だけど、あんまりいいの持ってないしな……。  くるみは壁に掛けられた鏡を覗き込み、肩までの長さの髪が乱れていないか、緑色のヘアピンが留められているか確かめた。 「いけない、待ち合わせに遅れちゃう」  目覚まし時計の針が午前十一時を指しているのを見て、くるみは慌てて部屋を出た。タンスの傍らには、雑誌の星占いのページが開いたまま落ちていた。くるみの星座である牡牛座の項目には、「ラッキーカラーは緑色。勇気を出して踏み出せば、素敵な出来事が待ってるかも」と書かれていた。 「お父さん、ちょっと出かけてくるね」  階段を下りたくるみはダイニングに顔を出し、テーブルに向かう父に声をかけた。 「また東活(とうかつ)かい? 飽きないねえ」  自宅兼工房で工芸品や民芸品を作る職人をしている章一は、彫刻刀を持つ手元から目を離さず言った。  廊下に出たくるみは玄関の脇の小さな和室に入り、仏壇に飾られた母の遺影に手を合わせた。くるみの母、佐千子が病死したのはくるみが高校二年生の年だった。悲しみや寂しさは時とともに少しずつ和らぎ、くるみは何気なく遺影を手に取った。  美人と評判だった佐千子が章一と結婚する際、周囲は驚いたという。章一は一七〇センチ足らずの身長にガッチリした体格、強面で寡黙だが根は優しい。  そして一人娘のくるみはというと、太めの眉にあっさりした目、低い鼻に大きめの口など、不思議とどちらにも似ていなかった。純和風とか笑うと愛嬌があってかわいいとか、無理して褒められたことはあるが、美人に程遠いの確かだった。くるみは鏡を見て、たまに溜め息をついていた。  高校を卒業したくるみは家事を切り盛りしつつ、章一の工房を手伝う日々を送っていた。そんなくるみに最近、ある楽しみができた。 「くるみ、こっちこっち」 「ごめんね、待った?」 「私たちも今来たとこ」  くるみが最寄り駅の改札口に着くと、高校時代の友人である恵子と千枝が手を振った。昭和三十年代後半。この頃、日本国内で製作される映画は活動写真と呼ばれており、いくつかある映画製作会社が数多くの作品を制作、各映画館に配給していた。監督や役者やスタッフは各会社に所属し、専属で活動していたのだった。  中でも東京活動写真製作会社、略して東活はアクション映画を筆頭に興行収入上位を記録し、岩瀬隆二や雪原小枝(さえ)といったスターを排出していた。東活の撮影所は田んぼに囲まれた郊外にあり、くるみたちのような一般人も撮影の様子を見物することができた。  撮影所の最寄り駅で電車を降りたくるみたち三人は撮影所の正面の入口から入り、見物の女の子たちの一団に加わった。くるみたちの目当ては俳優の佐山晴彦、彼は今年で二十七歳になる。サスペンス映画のワンシーンだろうか、グレーのスーツを着た晴彦は右手に小道具の拳銃を構え、左手で共演者の女優の肩を抱いているところだった。  晴彦と対峙する俳優は、晴彦とは対称的に丸腰でラフな格好の岩瀬隆二。敵役の晴彦を説得する大事なシーンで、役者も監督もスタッフも、見学の女の子たちも張り詰めた空気の中にいた。晴彦と隆二は、この空間でも目立つ存在感を放っていた。 「本当、佐山さんって美男子よね」 「拳銃を構えてると、様になるしね」  カットの声がかかって休憩に入り、恵子と千枝が話しはじめた。 「でもあんまり美男子だと、役者としては大成しないって聞いたことあるけど」 「どうして?」 「ほら、監督さんやお偉いさんが男の人だと、嫉妬されてあんまりいい役を貰えないらしいわよ」 「それじゃ佐山さんも?」  自分より背の高い二人に挟まれて、くるみは驚いた声を出した。 「そうそう、この映画の主演の岩瀬さん。今の東活で、一番勢いに乗ってる俳優さんでしょう。佐山さんは、岩瀬さんの友人やお兄さんの役で助演ばかり。映画だと佐山さんと岩瀬さんがヒロインを巡る三角関係になって、佐山さんは結局フラレる展開ばかりよね」  恵子が、くるみと千枝に話して聞かせた。 「本当ね、佐山さん東活に入社して四年になるのに、いまいちパッとしないのよね……」  撮影はまだ続いていたが、くるみたち三人は黙り込んでしまった。 「カット! よし、オーケー!」  監督の指示を受けた助監督が大声を張り上げた。 「佐山さん、お疲れ様……」 「ああ、お疲れ」  妖艶に光るサテンのドレスの衣装を着た女優が、口角を上げて晴彦に微笑みかけた。 「見学の女の子があんなに大勢……。佐山さんを見に来てるのね」 「そんなんじゃないよ」  晴彦は謙遜してみせた。  またか、この女の熱っぽい視線、何か言いたげに少し開かれた唇……。  急に背が伸びだした十代後半の頃から、晴彦はこのような女性の視線に慣れっこだった。  この女といい、見学の女の子たちといい、俺に惚れてる女ばかりだ。それを昨夜の占い師ときたら、何が女難の相だ。  水晶玉の前に座っていた占い師の老婦人を思い出した晴彦は、内心そう毒づいたのだった。  撮影所に見物に訪れたその週の、とある平日の夜、くるみは自室で、芸能関係の月刊誌「彗星」に目を通していた。巻頭のカラーページの特集は、女優の雪原小枝のグラビアだった。  小枝は東活が絶賛売り出し中の二十四歳。「月明かりの季節」や「鐘が鳴るまでこの恋を」などの文芸作品でヒロイン役を演じ、美貌と演技力で好評を博していた。  肩より長い波打つ黒髪を背中に流した小枝は、白いノースリーブのブラウスに黒地に白い水玉模様のロングスカートといった、スラリとした長身を引き立てる装いでページを飾っていた。  素敵だな、雪原さん……。  くるみはページをめくりながら溜め息をついた。  こんな女の人だったら、佐山さんとも釣り合うんだろうな。私も雪原さんみたいだったら、気後れすることなく佐山さんと外で会えるのに。二人で銀座に行くのがいいかな。時計台の下で待ち合わせして、夜景を見て。満天の星が煌めいて、スパークリングワインなんてなくても酔いしれる夜……。  くるみがそんな空想に耽っているうちに、夜は更けていった。  その日以降もくるみたちは見物に訪れたが、晴彦は地方ロケのために不在であることが続いた。 「今日もいないんだって、佐山さん」  見物の女の子たちの話を、くるみは小耳に挟んだ。  佐山さん、いないのか……。寂しいなんて思っても佐山さんはそもそも違う世界の人だし、見物に来てたまに姿を見られるだけでも十分よね。  十二月中旬。クリスマスと正月を迎える準備で街の人たちが慌ただしくしても、特に予定のないくるみは普段通りに過ごしていた。一方で、短大卒業を控えた恵子と就職先の和菓子屋が繁忙期を迎えた千枝は、見学から遠ざかっていた。  ある夜。くるみは自室で晴彦のブロマイドを眺めていた。 「佐山さん、やっぱり素敵……」  佐山さんは顔立ちも素敵だけど、雰囲気や仕草が優雅なのよね。  くるみは晴彦が頬杖をついてカメラに向かって笑いかける、特にお気に入りの一枚を穴の空くほど見つめていた。  佐山さんの周りにはいつも、雪原さんみたいな女優さんや、綺麗な女の人が大勢……。私なんて間違っても相手にされるはずがない……。  ブロマイドを片手にくるみは、そんなことを考えていた。  翌日の午後。くるみは工房の手伝いもそこそこに、一人電車に乗って東活の撮影所に向かった。近道である商店街を抜け撮影所の大きな門をくぐるまで、くるみは逸る気持ちを抑えられそうになかった。  ちょうど昼休みの終わり頃らしく、晴彦は大きな建物の脇で煙草を吸っていた。撮影中の映画の衣装だろうか、晴彦は黒いスーツを着ていた。右手の指に煙草を挟んで、悠然と煙を吹かす。  晴彦のそんな姿も様になっているとくるみは思ったが、晴彦はやはり少し疲れて見えた。くるみが遠くの方から見つめていると、ふいに晴彦がくるみに顔を向けた。  やだ、佐山さんと目を合わせるなんて、ドキドキしちゃう……。  くるみは咄嗟に俯いたが、思いきって顔を上げ、晴彦の朱色のネクタイの辺りに目線を向けた。なんてことのない茶色のダッフルコートにデニムの膝丈のスカートを履いてきたくるみは気恥ずかしくなり、肩から斜めに掛けていたポシェットの紐を指で弄んだ。すると晴彦がくるみに近づいてきた。 「そうだ、君、よく撮影見に来てるよね。今日は一人なの?」 「は、はい……」  くるみは頬がカーッと熱くなるのを意識しながら、変に裏返った声で返事をするのが精一杯だった。 「えっと……。いつも撮影お疲れ様です」 「ああ、また都内で撮影だからいいけどさ、こないだまで信州の山奥でロケだったんだ。朝から晩まで撮影続きで、もう参ったよ」  晴彦が気さくに話しだした。思っていたよりお喋りな人だとくるみは思った。 「そういや君、名前は?」 「中村……くるみといいます」 「くるみ? へえ、珍しいな。でもかわいい名前だね」  晴彦にかわいい名前と言われて、くるみは嬉しくなった。同級生に同じ名前の女子がいなかったり、リスの好きな食べ物と言われてたり。この名前があまり好きでない時もあったが、この時ばかりは名付けてくれた章一に感謝した。 「それじゃ時間だから。また見物に来なよ」  晴彦は煙草の火を消し、建物の中に戻っていった。ほんの僅かでも晴彦と話をすることができた驚きと喜びに、くるみの胸はいっぱいだった。  くるみはその場から動くことなく佇んでいた。そうするうちに、建物から出てきた晴彦が一人歩いてきた。昼間に着ていた衣装のスーツではなく、ダークグレーのオーバーにジーパンというくだけた格好だった。 「あれ? 君……まだ帰ってなかったんだ」  くるみを見つけた晴彦は、少し驚いた顔をした。 「どうかしたの?」 「佐山さん、好き……」  気がつくとくるみは声に出していた。 「佐山さんが、好きです……」  くるみは声が震えるのがわかった。おまけに心臓がバクバクしていた。晴彦の顔を見るのも怖かった。晴彦は少しの間くるみを見つめてからそう言った。 「ちょっと、ここで待っててくれる? すぐ戻るから」  晴彦がその場を離れて七、八分。  なんだろう、すごくドキドキする……。  くるみはソワソワしながら待っていた。戻ってきた晴彦は軽く息を弾ませていた。 「ほら、これ」 晴彦が包装紙に包まれた物を差し出すと、くるみはそれを受け取った。 「あげるよ」  くるみが白い簡素な包装紙を開けると、ちょうど片手で握れるくらいの長さの持ち手の付いた楕円形の手鏡が出てきた。それはアンティークの手鏡だった。鏡の裏面はオフホワイトで、全体に薔薇の模様があしらわれていた。 「わあ、綺麗……」  手鏡の持ち手を握り締めたくるみは、思わず溜め息をついた。  まるでおとぎ話に出てくる手鏡みたい。  鏡そのものに魅入られていたくるみは、晴彦が押し黙っているのに気づいてハッとした。そしてその直後、晴彦が発する一言によって絶望的な気持ちになるのだった。 「それをよーく見てから、さっきの言葉を俺に言うんだな」  晴彦は心底冷たい目をしてその場を去っていった。