ライブラリー キャラメルラテ

オリジナル小説書いてます

ガラス越しの恋

 二〇二〇年代初頭、サンパウロ州サンパウロ市。ペストやスペイン風邪、そしてコロナ禍。ほぼ百年に一度の割合で発生する感染症の世界的流行の真っ最中。
 事の始まりは、アジア諸国で最初の患者が見つかったことだ。水際対策も功を奏さずブラジル国内でも感染が広がり、政府から非常事態宣言が出された。

 若いホセが、サンパウロ市郊外の工場で自動車の整備工として働いていたある日のこと。
「この暑いのにマスクなんか、やってられないな」
 額から流れる汗を白い半袖のシャツを着た腕で拭いながら、ホセは勤務についていた。その夜ホセは、続けて出る咳や微熱の症状を覚えた。感染症の疑いはあったが、診療所で診察を受けたのは週末になってからだ。
 すぐにホセは、サンパウロ市内の大病院の隔離病棟に入院することが決まった。退院できるのはいつになるかわからない。入院した明くる日。ホセは病院側に許可を得て、恋人であるアウレアにしばしの別れを告げるのだった。
 アウレアが、隔離病棟一階の面会室に通された。白いタイルの貼られた床に足を踏み入れ顔を上げると、そこにホセがいた。アウレアは次の瞬間、胸の高鳴りと一抹の不安を同時に覚えた。
 二人はここひと月以上会っていないが、オンライン通話をしていた。それでもパジャマを着たホセは、アウレアの記憶にあるよりやつれて見えた。
 ホセとアウレアは向かい合ってパイプ椅子に座ったが、二人の間は透明の頑丈なガラスで仕切られていた。まるで拘置所などで面会する時のように。
「久しぶりね、ホセ」
「ああ……君は元気そうだな、アウレア」
 ホセの目の前に、黒いワンピースを身に纏ったアウレア。やや開いた襟元、剥き出しの腕、小麦色のなんとも健康的な肌。同じ部屋にいるのに触れられない、妙な焦燥感を覚える。
 ぎこちない沈黙を挟みながらも二人はポツポツと話しはじめ、そのうち元の二人のやりとりに戻っていった。

「付き合ってもうすぐ二年になるけど、俺たちが出会ったのはそれよりもう少し前だ。初めて君に会った日のこと、今でも覚えてるよ」
「私も覚えてるわ。大勢の中にいたのに、あなたの姿だけくっきり見えたみたいだった」
「君のお父さん、最初は俺たちが付き合うのを反対してたよな」
「あなたが経験豊富そうに見えたからじゃないかしら」
 別にそうでもない。いや、経験はそれなりにあるが、心を許したのはアウレアが初めてだ。
「付き合いたての頃かな、あれは。桟橋でソフトクリームを食べてたら、君が夢中でおしゃべりするうちにクリームが溶けて……」
 するとホセが、ポケットから出したハンカチでアウレアの指を拭ったのだった。その時アウレアは、初対面の時とはまた違った印象をホセに抱いた。
「観覧車に乗ったこと、覚えてる? 風の強い日で、笑っちゃ悪いけど君は怖がってたな」
 ホセはアウレアをからかうような口調でいった。
「それは、あなたがゴンドラを揺すったからじゃない」
 ホセが少し揺らしただけで、ゴンドラは風に煽られて大きくグラついた。それでアウレアは、ホセにしがみついたのだった。

 思い出しては赤面したり、胸が温かくなったり。ふいに、今は束の間の面会時間であることが頭をよぎり、アウレアは顔を曇らせた。
「思い出だけじゃなくてさ、また二人でどこか行こうよ。いつでも行けるよ。俺が退院するか、今の状態が落ち着くかして……」
「でも、いつになるか……」
 そこでアウレアは言葉を切った。二人を隔てているのはペラペラのアクリル板ではなく、強固で透明なガラス一枚。ガラス一枚といっても、とても硬い。それにアウレアには、何よりホセが遠く感じた。
 今のホセと私は、水中トンネルの内側にいる人間とその外を泳ぐ魚みたいなもの。お互いの姿は見えるのに、世界が違うみたい。
 アウレアの目が潤んだ。それに気づいたホセは躊躇うことなくマスクを口元から外し、アウレアに微笑みかけた。
「ホセ……」
「アウレア……」
 二人、どちらからでもなくガラスに手を伸ばした。透明なガラスを隔てて、お互いの手がぴったり重なる。ホセが硬いガラスに触れる指にグッと力を込めると、アウレアもほっそりした指先でガラスを押すように、ありったけの力を込めた。
 ここからの数秒、数十秒、一分。二人にとっては、永遠にも感じられたに違いない。

「そろそろ時間です」
 中年の女性看護師が、きっぱりした口調でホセに告げた。白い壁に掛けられた時計の秒針が、面会時間の終わりを無情に告げていた。先にアウレアが、ガラスからスッと手を離した。
 まだガラスに触れているホセの指、俯くアウレア。今度はホセが涙を堪えようと、唇をギュッと噛み締めるのだった。
 マスクとフェイスガードでほとんど表情の見えない看護師は、背筋を伸ばして面会室の出口付近に立っていた。もう少し一緒にいさせてやりたいけど、規則だし仕方ない。それでも看護師は、ホセにそれ以上声をかけなかった。
 やがてホセは顎の下に下がっていたマスクを掛け直すと椅子からゆっくり立ち上がり、座ったままのアウレアに一度頷いてみせ、それから面会室を後にしたーー。