ライブラリー キャラメルラテ

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無情の夢③

それからどこをどう歩いたのか、くるみにはさっぱり記憶がなかった。気がつくとくるみは着心地のいいグレーのパジャマを着て、自室のベッドに寝ていたのだった。クリスマスイブは、章一と向かい合って市販のショートケーキを食べるうちに過ぎた。ケーキに添えられたサンタクロースの砂糖菓子が、くるみをほっこり和ませてくれた。

 翌日のクリスマス、章一は卵とじうどんを作った。うどんを鍋で煮込んでめんつゆを加え卵でとじる、手軽な作り方のうどんだ。佐千子が亡くなって以来、章一がよく作るようになったメニューの一つでもある。
「うん、おいしい。やっぱりお父さんの作る卵とじうどんが一番だな」
 くるみは和室のちゃぶ台でうどんを啜り、章一に笑ってみせた。
「そうか……」 
 章一はぎこちない笑みを浮かべた。章一はくるみに何かあったと薄々気づいていたが、何も言わなかった。うどんを食べ終えたくるみは、改めて室内を見回した。小さな仏壇、章一か貼り替えたばかりの障子、和風のランプ。 
 狭いけど落ち着く……。銀座も楽しかったけど、やっぱり家が一番だな……。
 次の日からくるみは、正月を迎える準備に追われた。忙しさに気を紛らわせつつも、ふとした瞬間、晴彦の顔や銀座で過ごしたつかの間の光景がくるみの頭をよぎるのだった。
 
 正月も明け、日常に戻る頃。リーンリーン。自宅の廊下で電話が鳴り、くるみは受話器を取った。
「はい、中村で……。ああ、恵子、久しぶり」
「久しぶりじゃないわよ、くるみ。どういうこと?」
 キョトンとするくるみに、恵子が興奮気味に話しはじめた。電話口の向こうには千枝もいるようだった。恵子の話によるとこうだ。先日久々に撮影所を訪れたら、晴彦の方から話しかけてきた。中村くるみにひどいことを言ったのを謝りたいから、撮影所に呼んでくれないか、と頼まれたというのだ。
「ねえ、くるみ、どういうこと? 佐山さんと何があったの?」
「ごめん、落ち着いたら話すね。それで、佐山さんは……」
「佐山さん、明日のお昼に撮影所に来られないかって。佐山さんが前に煙草を吸ってた場所だって」
「わかった、連絡ありがとう」
 
 翌日、正午を迎える少し前。くるみは少し早い電車に乗り、東活の撮影所に向かった。指定された場所に、カーキ色のオーバーと黒いズボンを履いた晴彦がいた。
「佐山さん」
「ああ……」
 晴彦はくるみを見ても表情を変えなかった。本当はここに来るために精一杯お洒落をしてこようとくるみは思っていたが、どんなに着飾っても自分は自分なのだから、結局普段着の茶色のダッフルコートとそこらのセーターやズボンという格好で来たのだった。
「君が本物の中村くるみくんだね」
「は、はい……」
 晴彦に顔をじっと見られ、くるみは消え入りそうな声で返事をした。くるみは蝶々のラトリスに魔法の国に連れていかれたことから何から、洗いざらい晴彦に話した。晴彦は狐につままれた顔で聞いていた。 
「そうか、魔法だったのか、あれは……なるほどな。俺はこの先、何を見ても動じなくなるだろうな。それよりすまなかったね、ひどいこと言って」
 晴彦はオーバーのポケットから片手を出して、頭の後ろを押さえた。
「いえ、私の方こそ騙すような真似をして……」
「ところで君、これからどうするの? 」 
「これまで通り、父の工房を手伝います。小さな工房ですが、工芸品や民芸品を作っているんです…」
「そうか、まあ頑張れよ」
「あの、佐山さん」
 くるみは思いきって声をかけた。
「私、佐山さんの生年月日で占ってみたんです。四柱推命といって、中国に古代から伝わる占いで……」
 占いと聞いて、晴彦は怪訝そうに眉を寄せた。
「えっと、佐山さんには十二運の中の帝旺と建禄っていう、特に強い星がついていて……。その星の下に生まれた人は、社会で活躍する人ばかりなんです……」
 くるみのたどたどしい説明を、晴彦は時折頷きながら黙って聞いていた。 
「だから佐山さん、きっと役者として大成しますよ」
「へえ。それじゃ、そのつもりでやってくよ」
 晴彦の穏やかな口調に、くるみはこれまでと違った空気が流れるのを感じた。
 
「そうだ、俺さ、恋人ができたんだ。六歳下で、去年東活に入社した駆け出しの女優なんだ」
「そうなんですか……。おめでとうございます」
 くるみは素直にそう口にした。
「ありがとう、隆二くんにも言われたな、プレイボーイの君も年貢の納め時だなって」
「その人、綺麗な人なんでしょう?」
 くるみは試しに聞いてみた。
「いや、それは……」
「いいですよ、はっきり言ってくれて」
「ああ、かわいい娘だよ。でも、なんていうか……それ以上に一途で、本当にいい娘なんだよ……」
 晴彦が狼狽えて見えるのを、くるみは珍しいと思った。
「いいですよ、もう」
 くるみはクスクス笑った。
「からかわないでくれよ」
 晴彦が笑うと、目尻に皺が寄るのがわかった。 晴彦が年を重ねると、もっと深い皺が刻まれるだろう。
 でもこの人は、年を重ねてもきっと素敵だろう。そしてその時、この人のそばにいるのは私ではない。私のほしかったもの。それは魔法のドレスでもガラスの靴でもない。この人が本当に笑った顔だ。それこそが最も手に入らないもの。はじめからよくわかっていた
 
「おまけにもう一つ教えてあげるよ。君、口は堅そうだからね、まだ誰にも言わないね」
 「は、はい……」
  念を押されたくるみは僅かに身構えた。
「隆二くん、いるだろ」
 くるみが頷くと晴彦が話を続けた。
 「隆二くんは、同じ東活の専属女優の雪原小枝さんと付き合ってるんだ」
 くるみが目を丸くすると、晴彦が少し得意そうにした。
 「驚いたろ?  知ってる人は、まだそんなにいないからね。会社のお偉いさんに反対されるだろうからって、二人ともおおっぴらにしてないんだ」
 岩瀬さんと雪原さんが……。知らなかった。それに雪原さん、佐山さんがタイプってわけでもなかったのね。なんだ、そっか……
「ところで君さ」
「はい」
「俺の本名知ってる?」 
 くるみが首を横に振ると、晴彦が話を続けた。
「尊志(たかし)だよ、佐山尊志。晴彦は東活に入社した時、会社のお偉いさんが付けてくれたんだ。それまでは俺、小さな劇団で新劇をやってたんだ。その時は本名で出ててさ」
 「尊志……さん……」
 口に出してみると妙な感覚だった。くるみの頭の中を、ここ数ヶ月の出来事が回転木馬のように回しだした。
 私はこれまで、この人の何を見ていたのだろう。もしかして何も見ていなかったのかもしれない。いや、見ようともしていなかったのかもしれない。
 もしかしたらずっと夢を、無情の夢を見ていたのかもしれない。白と黒の大きなスクリーン、銀幕の世界。魅力的な登場人物に、ドラマチックなストーリー。華やかだが、どこか虚構の世界。全てはフィルムが回っている間の夢、まさに無情の夢。
 急にくるみの視界がクリアになり、景色がこれまでと違って見えるようになった。
「それじゃ、元気で」
 晴彦は口元だけで、くるみに儀礼的な笑みを浮かべた。 
「さようなら……」
 くるみもぎこちない笑みを浮かべ、去っていく晴彦の背中を見送ったのだった。
 
 数ヶ月後。
「ねえ、聞いた? 今度新しく撮影に入る映画」
 「何? 何?」
「監督さんはなんでも、よその映画会社から引き抜かれてきたんですって。四十代手前の、わりと美男子だそうよ」
 東活の撮影所の建物の一階にある、台本の読み合わせなどを行う部屋。女優や女性スタッフが噂話をしていた。
 そこにスーツを着た幹部の中年男性がやってきて役者やスタッフを集めると、勿体ぶったように咳払いを一つした。
「えー……これから撮影に入る映画のタイトルは無情の夢。主演は佐山晴彦くんだ」 
 一同が拍手する中、晴彦はこれまでになく誇らしい心境でいた。
 「そして監督は……」
 コツ……コツ……黒い革靴を鳴らし、一人の男が大勢の前に姿を現した。実直そうな顔つき、薄手の茶色いジャケットをさりげなく着こなした引き締まった体躯。男はいかにも溌剌としていた。その場にいる全員の視線が集まるなか、男が口を開いた。
「海映(かいえい)から来ました。武中秀一郎と申します。よろしくお願いします」