ライブラリー キャラメルラテ

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無情の夢②

なんで私、佐山さんにあんなこと言っちゃったんだろう。もう消えてしまいたい……。

 晴彦の言葉にくるみは、目の前が暗くなるような感覚に陥った。くるみは撮影所の最寄り駅に戻る道とは反対方向を、ふらふら歩いた。辺りは一段と暗くなり、気がつくとくるみは大きな河川に架かる橋の上で、欄干に両手を置いて佇んでいた。数日前の大雨で増水した川が、ゴーゴーと音を立てて流れていた。
 ここから濁流めがけて飛び込めば……。
 その時だった。一羽の蝶々が鮮やかなレモンイエローの羽を大きく広げて、くるみに向かって飛んできたのは。
「な、何……? この蝶々……」
 くるみはギョッとした。
「久しぶりね、あなた」
 蝶々が話しかけてきて驚いたが、まるで蝶々がくるみが早まったことをするのを止めに来たように見えて、くるみは少し冷静になった。
「私のこと覚えてない?」
 蝶々がくるみに尋ねた。蝶々のレモンイエローの羽を見ているうちに、二ヶ月前の出来事がくるみの脳裏に蘇ったーー。
 
 都内にも秋めいた風が吹くようになった十月下旬。くるみは章一に頼まれて少し遠くの金物屋に出かけた帰り、道端で大きな蜘蛛に睨まれていた蝶々を助けたことがあった。
 やだ、もじゃもじゃして気味悪い蜘蛛。このままだと蝶々が……。
 くるみが木の枝でつつくと、蜘蛛はサーッと逃げていった。この時も蝶々はくるみの周りをヒラヒラ飛び、夕暮れの空の彼方に姿を消したのだったーー。
 
「私は魔法の国から来た蝶々なの。あの時、蜘蛛から助けてくれたあなたを探していたのよ」
 魔法の国という言葉をくるみは半信半疑魔法の国という言葉を、くるみは半信半疑で聞いた。
「ねえ、何があったの? 悲しそうな顔して……」
 蝶々は黒い触角を揺らしてくるみに尋ねた。さやかや麻衣にも言えそうにないと思っていたくるみは、蝶々にこれまでの出来事を話した。
「わかったわ、それじゃ魔法の国に連れていってあげる」
 
 次の瞬間、くるみと蝶々はあっという間に暗室のような真っ暗な部屋にワープしていた。くるみの目にかろうじて輪郭が見える蝶々が触角を揺らすと、天井からぶら下がったチューリップの花を逆さにしたような形のランプがパッと点いた。
 「ここは魔法の国の国王が住まう一室なの。人間が来ることは滅多にないのよ」
「そうなの……」
 いつの間にかくるみの目の前に、年齢不詳に見える一人の女性が立っていた。その女性は一六〇センチ台半ばくらいの身長。絵本やファンタジー映画で見るような紫色の長いローブを着て、茶色い木の杖を手にしていた。女性は濃いめの化粧を施した顔で、にこやかにくるみを見ていた。
「あらあら、この娘なのね。うちのラトリスを助けてくれたのは」
 女性の声は、くるみの予想を裏切るように低く掠れていた。おまけに喉仏が突き出ていたが、くるみは気にしないことにした。
「ラトリスから話は聞いてるわ。お礼に一晩、魔法をかけてあげる」
 魔法使いはリッツと名のり、蝶々はラトリスといった。リッツに促されたくるみは、美容室に置いてあるような大きな椅子に腰掛けた。くるみの目の前には、これまた美容室に置いてあるような大きな鏡。
 やだ、佐山さんに言われたことを思い出しちゃう……。
 くるみがふと顔を曇らせると、リッツがくるみの手に自分の手をそっと重ねた。くるみを安心させる温かさだった。 
「でもあなた、中々勇気があるのね。好きな人に好きって言えるなんて、すごいじゃない」
「でも私なんかに好きって言われて、佐山さんは迷惑だったんじゃ……」
「そんなことないわよ。気持ちを伝えられる相手がいるだけ、素晴らしいことだと私は思うわ」 
 リッツが意味深な顔をして黙り込むと、くるみは心配そうに、鏡に映るリッツを見た。
「私も思い出すわ、竹中くんのこと……」
 リッツはポツリと呟いて、懐かしそうに語りだした。
「私は若い頃、国王の命令で人間界に留学していたことがあるの。その時、高校の同級生だったのか武中秀一郎くん。美男子で成績が良くて、女生徒に人気があったわ。それにどこか超然とした雰囲気があって、男子からも一目置かれていたのよ」
 くるみはリッツの話に聞き入っていた。リッツはくるみの顔や髪を触りながら話を続けた。
 「武中くんと同じ空間にいられて、たまに声をかけてもらえるだけで私は幸せだったわ。それに私は魔法使いだし、人間と恋に落ちるなんてご法度。結局、武中くんに好きって打ち明けることはなかったのよ」
「そうだったんですか……」
「それからすると、あなたはいいわよ。その佐山って男に、少なくとも気持ちは伝えられたんだから」
 リッツは調合したラベンダー色の液体を霧吹きでくるみに吹きかけ、木の杖を一振りして呪文を唱えた。
「佐山をこれであっと言わせるといいわ」
 くるみは閉じていた目を恐る恐る開け、こわごわと鏡を見た。くるみの目の前には、これまで見たことのない美女がいた。
 これが私……? なんだか嘘みたい……。
 「一晩だけよ、その姿なのは」
 リッツがくるみに念を押した。くるみはリッツの言葉を耳に入れながらも、意識は鏡に映る美女にあった。
 憧れの雪原さんに似てる……。 
くるみが着ていたロングドレスはオレンジ色のシンプルなデザインで、真珠のスパンコールが散りばめられた魔法のドレスだった。おまけに身体全体膜がかかっているように見えた。
 くるみがずっと身に着けていた斜め掛けのポシェットは、光る素材でできたハンドバッグに変わっていた。おとぎ話で主人公が舞踏会に持っていくようなバッグだとくるみは思った。 
「どう?素敵でしょう」
「とってもかわいいわよ」
 リッツはにこやかに言い、ラトリスは嬉しそうにくるみの周りを飛んだ。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」 
 鏡に見惚れるくるみに、リッツがフッと微笑んだ。
「さあ、立って。次の魔法が肝心なのよ」
「なんですか?」
 くるみはスッと立ち上がり、リッツに尋ねた。
 なんだか身のこなしも優雅になったみたい。雪原さんや綺麗な女優さんみたいに……。
 「自信を持つこと。そうでしょう?」
「リッツさん……」
「そうよ、頑張ってね」
「ラトリスも、二人ともありがとうございました」
 
 くるみはラトリスの魔法によって、再び人間界に戻ってきた。魔法の国にいる間とは時間の経過が異なっており、くるみが晴彦に手鏡を手渡された日の翌日の夕方になっていた。
 その足で撮影所に出向いたくるみは、周囲がざわめくのを感じた。
 人々の羨望の眼差し、息を飲む声。雪原さんみたいな女優さんって、こんな感じなんだ……。
 スニーカーの方が慣れているくるみだったが、不思議にガラスのハイヒールで颯爽と歩くことができた。俳優や男性スタッフ、または女性スタッフとは違い、何人かの勝ち気そうな女優は敵意にも似た鋭い視線をくるみに向けてきた。くるみは怯みそうになったが、胸を張り歩き続けた。
 群集の中、くるみは探していた顔をすぐに見つけることができた。それは晴彦の顔だった。晴彦は、ベレー帽を被った監督らしき年配の男性や若い男性スタッフと数人で談笑していた。
 「おい、誰だろう。あの美女……」
 男性スタッフの言葉に顔を上げた晴彦は、くるみを一目見てパッと目を煌めかせた。魔法で美女になっているとはいえ、くるみの胸中は複雑だった。晴彦がくるみにゆっくり近づいてきた。
「君、俺のこと知ってる? 東活で俳優やってる、佐山晴彦」
「ええ、知ってるわ……」
 くるみは晴彦の目をじっと見て返事をした。ロマンス映画でヒロインが、相手役のヒーローに微笑みかける場面を意識して。
 
 それから話は早かった。晴彦とくるみは二人、夜の銀座に来ていた。晴彦は黒いスーツに藍色のネクタイを締め、黒いオーバーを着ていた。晴彦にはやはり黒が似合うと、くるみは思った。
 銀座の大通りのビルの前には、三階まで届きそうな高さのクリスマスツリーがあった。ツリーの緑色の葉からは赤と白の縞模様の靴下、カラフルなスノーボール、雪だるまや雪の結晶の飾りなどがぶら下がっていた。
「明後日はもうクリスマスイブだね。今年はここらにも雪が振りそうだ」
 ツリーに見惚れるくるみに、晴彦が声をかけた。
「子供の頃、雪だるまを作ったことがあるわ」
「俺もあるよ。でも、次の日には溶けてるよね」
 晴彦が笑った。二人は近くのダンスホールやってきた。流れていたのは落ち着いたクラシック音楽。やや仄暗い照明の下、何組かのカップルがダンスを楽しんでいたが、互いの世界に夢中になって他のカップルには無関心に見えた。晴彦の右肩にそっと左手を添えたくるみは、音楽のゆったりしたテンポに合わせて身体を揺らした。
 向かい合って踊るなんて映画でしか観たことないけど、なんとか形になってるかな……。それにしても佐山さんと踊るなんて、変な感じ。
 
 一旦ダンスを終えたくるみは外の空気を吸おうと、誰もいない二階のテラスに出た。
「ここにいたんだ」
 くるみが夜空を見上げていると、晴彦もやってきた。夜空に煌めく満天の星、目の前にいる佐山晴彦。くるみが空想していた通りの光景だった。晴彦の微笑んだ顔も、怖いくらい空想と同じだった。
 これもリッツの魔法……? なんだか現実味がない……。
 くるみはシャンパンを飲み干した後のような、ふわふわした感覚でいた。テラスの白い柵に片手を置いた晴彦は、もう片方の手をくるみの右手の甲に重ねた。
「もっと君を知りたい……。一晩、僕と過ごさないか……?」
 やだ、佐山さんってこんな風に女の人を口説くの……?
「ちょっと私、じ……実家に電話してきます……!」
 晴彦の手を振りほどいたくるみは、誰もいない廊下の片隅に駆け込んだ。
 とにかく深呼吸して落ち着こう。あれ? 鞄がない。テラスに置いてきちゃったんだ。どのみち魔法は一晩限りだし、もう帰ろうかな……。
「君……。これはどういうことなんだ」
 テラスに戻ったくるみに晴彦が突きつけたのは、アンティークの手鏡だった。
 しまった、佐山さんから貰った手鏡、さっき鞄を落とした拍子に滑り落ちたんだ。
「それは、その」
「君はまさか、よく見学に来ていた子か。名前は確か、中村くるみ」
 重い沈黙が流れた。くるみが小さく頷くと、晴彦は信じられないといったように片手で頭を押さえた。
「あ、あの」
 くるみは躊躇いながら顔を上げた。晴彦がくるみを見る目には、軽蔑の念が強く込められていた。
「危なかったよ、眼中にもない女を口説くところだったとは。もう俺の前に姿を見せないでくれないか?」
 
「ねえ、リッツ」
 魔法の国のお城の一室。大きな肘掛け椅子にゆったり腰掛けるリッツに、ラトリスがヒラヒラ飛びながら話しかけた。
「何? ラトリス」
「あの女の子、今頃どうしてるかしら」
「気になるのね、ラトリス。残念だけどあの娘には、もう会うことはないと思っておいた方がいいわ。ラトリスを助けてくれた、お礼に一晩魔法をかけてあげたんだから。それに人間には深入りしないよう、国王にも言われてるでしょう」
「そうね……まあ元気だといいけど」
 紫煙をくゆらすリッツの回りを飛びながら、ラトリスはくるみの顔を思い浮かべるのだった。

無情の夢①

十一月中旬の冷たい夜風が肌を突き刺す午後九時過ぎ。東京メトロ沿線、駅前の大通りを一本脇に入った舗道を、一人の男が歩いていた。年格好は二十代後半といったところ。まっすぐ上がり、眉尻にかけて曲がった黒い眉、同じ色のはっきりした瞳。やや東洋人離れした高い鼻に形のいい唇。男は彫りの深い端正な顔立ちの持ち主だった。  黒いズボンと靴を履いた長身痩躯の男は、渋めのカーキ色のオーバーのポケットに両手を入れてまっすぐ前を見据えて歩いていた。 「ちょっと、そこのあなた」  豊かな黒髪をなびかせる男を呼び止めたのは、占い師の老婦人だった。小柄な占い師はネイビーブルーの布を敷いた段ボール箱を路上に置き、神秘的な水晶玉の前に座っていた。水晶玉占いの他にはタロットカード占いや手相占いなど、いずれもよく当たると評判だった。  えんじ色のスカーフを顔の周囲にぐるりと巻いた占い師は、奥まった目で男をジロリと見た。男は占い師の前に立ち止まると首を左右に動かし、往来に他には誰もいないことを確かめた。その悠然とした動作からは、育ちの良さが窺えた。 「俺?」  男は占い師に尋ねた。男が訝しげに眉を動かすと、目鼻の造形が余計際立った。 「そう、あなた中々の美男子だけど、女難の相が出ているから気をつけた方がいいわよ」 「はあ」  占い師は声に警告の色をにじませたか、占いなど頭から信じていない男はぞんざいに返事しただけだった。  なんだ、この占い師。この俺に女難の相だと。そんなこと起きるわけないだろ。  男はそのまま帰路に着いた。これから男の人生に、ある変化が起きるとは知らずーー。 「これでいいかな……」  その翌日。都内郊外下町、個人商店が軒を連ねる一角。中村くるみは自宅二階の自室でタンスの引き出しを開け閉めしながら、身支度に迷っていた。  今着てる白いパーカーとデニムのズボンは普段着だけど、あんまりいいの持ってないしな……。  くるみは壁に掛けられた鏡を覗き込み、肩までの長さの髪が乱れていないか、緑色のヘアピンが留められているか確かめた。 「いけない、待ち合わせに遅れちゃう」  目覚まし時計の針が午前十一時を指しているのを見て、くるみは慌てて部屋を出た。タンスの傍らには、雑誌の星占いのページが開いたまま落ちていた。くるみの星座である牡牛座の項目には、「ラッキーカラーは緑色。勇気を出して踏み出せば、素敵な出来事が待ってるかも」と書かれていた。 「お父さん、ちょっと出かけてくるね」  階段を下りたくるみはダイニングに顔を出し、テーブルに向かう父に声をかけた。 「また東活(とうかつ)かい? 飽きないねえ」  自宅兼工房で工芸品や民芸品を作る職人をしている章一は、彫刻刀を持つ手元から目を離さず言った。  廊下に出たくるみは玄関の脇の小さな和室に入り、仏壇に飾られた母の遺影に手を合わせた。くるみの母、佐千子が病死したのはくるみが高校二年生の年だった。悲しみや寂しさは時とともに少しずつ和らぎ、くるみは何気なく遺影を手に取った。  美人と評判だった佐千子が章一と結婚する際、周囲は驚いたという。章一は一七〇センチ足らずの身長にガッチリした体格、強面で寡黙だが根は優しい。  そして一人娘のくるみはというと、太めの眉にあっさりした目、低い鼻に大きめの口など、不思議とどちらにも似ていなかった。純和風とか笑うと愛嬌があってかわいいとか、無理して褒められたことはあるが、美人に程遠いの確かだった。くるみは鏡を見て、たまに溜め息をついていた。  高校を卒業したくるみは家事を切り盛りしつつ、章一の工房を手伝う日々を送っていた。そんなくるみに最近、ある楽しみができた。 「くるみ、こっちこっち」 「ごめんね、待った?」 「私たちも今来たとこ」  くるみが最寄り駅の改札口に着くと、高校時代の友人である恵子と千枝が手を振った。昭和三十年代後半。この頃、日本国内で製作される映画は活動写真と呼ばれており、いくつかある映画製作会社が数多くの作品を制作、各映画館に配給していた。監督や役者やスタッフは各会社に所属し、専属で活動していたのだった。  中でも東京活動写真製作会社、略して東活はアクション映画を筆頭に興行収入上位を記録し、岩瀬隆二や雪原小枝(さえ)といったスターを排出していた。東活の撮影所は田んぼに囲まれた郊外にあり、くるみたちのような一般人も撮影の様子を見物することができた。  撮影所の最寄り駅で電車を降りたくるみたち三人は撮影所の正面の入口から入り、見物の女の子たちの一団に加わった。くるみたちの目当ては俳優の佐山晴彦、彼は今年で二十七歳になる。サスペンス映画のワンシーンだろうか、グレーのスーツを着た晴彦は右手に小道具の拳銃を構え、左手で共演者の女優の肩を抱いているところだった。  晴彦と対峙する俳優は、晴彦とは対称的に丸腰でラフな格好の岩瀬隆二。敵役の晴彦を説得する大事なシーンで、役者も監督もスタッフも、見学の女の子たちも張り詰めた空気の中にいた。晴彦と隆二は、この空間でも目立つ存在感を放っていた。 「本当、佐山さんって美男子よね」 「拳銃を構えてると、様になるしね」  カットの声がかかって休憩に入り、恵子と千枝が話しはじめた。 「でもあんまり美男子だと、役者としては大成しないって聞いたことあるけど」 「どうして?」 「ほら、監督さんやお偉いさんが男の人だと、嫉妬されてあんまりいい役を貰えないらしいわよ」 「それじゃ佐山さんも?」  自分より背の高い二人に挟まれて、くるみは驚いた声を出した。 「そうそう、この映画の主演の岩瀬さん。今の東活で、一番勢いに乗ってる俳優さんでしょう。佐山さんは、岩瀬さんの友人やお兄さんの役で助演ばかり。映画だと佐山さんと岩瀬さんがヒロインを巡る三角関係になって、佐山さんは結局フラレる展開ばかりよね」  恵子が、くるみと千枝に話して聞かせた。 「本当ね、佐山さん東活に入社して四年になるのに、いまいちパッとしないのよね……」  撮影はまだ続いていたが、くるみたち三人は黙り込んでしまった。 「カット! よし、オーケー!」  監督の指示を受けた助監督が大声を張り上げた。 「佐山さん、お疲れ様……」 「ああ、お疲れ」  妖艶に光るサテンのドレスの衣装を着た女優が、口角を上げて晴彦に微笑みかけた。 「見学の女の子があんなに大勢……。佐山さんを見に来てるのね」 「そんなんじゃないよ」  晴彦は謙遜してみせた。  またか、この女の熱っぽい視線、何か言いたげに少し開かれた唇……。  急に背が伸びだした十代後半の頃から、晴彦はこのような女性の視線に慣れっこだった。  この女といい、見学の女の子たちといい、俺に惚れてる女ばかりだ。それを昨夜の占い師ときたら、何が女難の相だ。  水晶玉の前に座っていた占い師の老婦人を思い出した晴彦は、内心そう毒づいたのだった。  撮影所に見物に訪れたその週の、とある平日の夜、くるみは自室で、芸能関係の月刊誌「彗星」に目を通していた。巻頭のカラーページの特集は、女優の雪原小枝のグラビアだった。  小枝は東活が絶賛売り出し中の二十四歳。「月明かりの季節」や「鐘が鳴るまでこの恋を」などの文芸作品でヒロイン役を演じ、美貌と演技力で好評を博していた。  肩より長い波打つ黒髪を背中に流した小枝は、白いノースリーブのブラウスに黒地に白い水玉模様のロングスカートといった、スラリとした長身を引き立てる装いでページを飾っていた。  素敵だな、雪原さん……。  くるみはページをめくりながら溜め息をついた。  こんな女の人だったら、佐山さんとも釣り合うんだろうな。私も雪原さんみたいだったら、気後れすることなく佐山さんと外で会えるのに。二人で銀座に行くのがいいかな。時計台の下で待ち合わせして、夜景を見て。満天の星が煌めいて、スパークリングワインなんてなくても酔いしれる夜……。  くるみがそんな空想に耽っているうちに、夜は更けていった。  その日以降もくるみたちは見物に訪れたが、晴彦は地方ロケのために不在であることが続いた。 「今日もいないんだって、佐山さん」  見物の女の子たちの話を、くるみは小耳に挟んだ。  佐山さん、いないのか……。寂しいなんて思っても佐山さんはそもそも違う世界の人だし、見物に来てたまに姿を見られるだけでも十分よね。  十二月中旬。クリスマスと正月を迎える準備で街の人たちが慌ただしくしても、特に予定のないくるみは普段通りに過ごしていた。一方で、短大卒業を控えた恵子と就職先の和菓子屋が繁忙期を迎えた千枝は、見学から遠ざかっていた。  ある夜。くるみは自室で晴彦のブロマイドを眺めていた。 「佐山さん、やっぱり素敵……」  佐山さんは顔立ちも素敵だけど、雰囲気や仕草が優雅なのよね。  くるみは晴彦が頬杖をついてカメラに向かって笑いかける、特にお気に入りの一枚を穴の空くほど見つめていた。  佐山さんの周りにはいつも、雪原さんみたいな女優さんや、綺麗な女の人が大勢……。私なんて間違っても相手にされるはずがない……。  ブロマイドを片手にくるみは、そんなことを考えていた。  翌日の午後。くるみは工房の手伝いもそこそこに、一人電車に乗って東活の撮影所に向かった。近道である商店街を抜け撮影所の大きな門をくぐるまで、くるみは逸る気持ちを抑えられそうになかった。  ちょうど昼休みの終わり頃らしく、晴彦は大きな建物の脇で煙草を吸っていた。撮影中の映画の衣装だろうか、晴彦は黒いスーツを着ていた。右手の指に煙草を挟んで、悠然と煙を吹かす。  晴彦のそんな姿も様になっているとくるみは思ったが、晴彦はやはり少し疲れて見えた。くるみが遠くの方から見つめていると、ふいに晴彦がくるみに顔を向けた。  やだ、佐山さんと目を合わせるなんて、ドキドキしちゃう……。  くるみは咄嗟に俯いたが、思いきって顔を上げ、晴彦の朱色のネクタイの辺りに目線を向けた。なんてことのない茶色のダッフルコートにデニムの膝丈のスカートを履いてきたくるみは気恥ずかしくなり、肩から斜めに掛けていたポシェットの紐を指で弄んだ。すると晴彦がくるみに近づいてきた。 「そうだ、君、よく撮影見に来てるよね。今日は一人なの?」 「は、はい……」  くるみは頬がカーッと熱くなるのを意識しながら、変に裏返った声で返事をするのが精一杯だった。 「えっと……。いつも撮影お疲れ様です」 「ああ、また都内で撮影だからいいけどさ、こないだまで信州の山奥でロケだったんだ。朝から晩まで撮影続きで、もう参ったよ」  晴彦が気さくに話しだした。思っていたよりお喋りな人だとくるみは思った。 「そういや君、名前は?」 「中村……くるみといいます」 「くるみ? へえ、珍しいな。でもかわいい名前だね」  晴彦にかわいい名前と言われて、くるみは嬉しくなった。同級生に同じ名前の女子がいなかったり、リスの好きな食べ物と言われてたり。この名前があまり好きでない時もあったが、この時ばかりは名付けてくれた章一に感謝した。 「それじゃ時間だから。また見物に来なよ」  晴彦は煙草の火を消し、建物の中に戻っていった。ほんの僅かでも晴彦と話をすることができた驚きと喜びに、くるみの胸はいっぱいだった。  くるみはその場から動くことなく佇んでいた。そうするうちに、建物から出てきた晴彦が一人歩いてきた。昼間に着ていた衣装のスーツではなく、ダークグレーのオーバーにジーパンというくだけた格好だった。 「あれ? 君……まだ帰ってなかったんだ」  くるみを見つけた晴彦は、少し驚いた顔をした。 「どうかしたの?」 「佐山さん、好き……」  気がつくとくるみは声に出していた。 「佐山さんが、好きです……」  くるみは声が震えるのがわかった。おまけに心臓がバクバクしていた。晴彦の顔を見るのも怖かった。晴彦は少しの間くるみを見つめてからそう言った。 「ちょっと、ここで待っててくれる? すぐ戻るから」  晴彦がその場を離れて七、八分。  なんだろう、すごくドキドキする……。  くるみはソワソワしながら待っていた。戻ってきた晴彦は軽く息を弾ませていた。 「ほら、これ」 晴彦が包装紙に包まれた物を差し出すと、くるみはそれを受け取った。 「あげるよ」  くるみが白い簡素な包装紙を開けると、ちょうど片手で握れるくらいの長さの持ち手の付いた楕円形の手鏡が出てきた。それはアンティークの手鏡だった。鏡の裏面はオフホワイトで、全体に薔薇の模様があしらわれていた。 「わあ、綺麗……」  手鏡の持ち手を握り締めたくるみは、思わず溜め息をついた。  まるでおとぎ話に出てくる手鏡みたい。  鏡そのものに魅入られていたくるみは、晴彦が押し黙っているのに気づいてハッとした。そしてその直後、晴彦が発する一言によって絶望的な気持ちになるのだった。 「それをよーく見てから、さっきの言葉を俺に言うんだな」  晴彦は心底冷たい目をしてその場を去っていった。

ガラス越しの恋

 二〇二〇年代初頭、サンパウロ州サンパウロ市。ペストやスペイン風邪、そしてコロナ禍。ほぼ百年に一度の割合で発生する感染症の世界的流行の真っ最中。
 事の始まりは、アジア諸国で最初の患者が見つかったことだ。水際対策も功を奏さずブラジル国内でも感染が広がり、政府から非常事態宣言が出された。

 若いホセが、サンパウロ市郊外の工場で自動車の整備工として働いていたある日のこと。
「この暑いのにマスクなんか、やってられないな」
 額から流れる汗を白い半袖のシャツを着た腕で拭いながら、ホセは勤務についていた。その夜ホセは、続けて出る咳や微熱の症状を覚えた。感染症の疑いはあったが、診療所で診察を受けたのは週末になってからだ。
 すぐにホセは、サンパウロ市内の大病院の隔離病棟に入院することが決まった。退院できるのはいつになるかわからない。入院した明くる日。ホセは病院側に許可を得て、恋人であるアウレアにしばしの別れを告げるのだった。
 アウレアが、隔離病棟一階の面会室に通された。白いタイルの貼られた床に足を踏み入れ顔を上げると、そこにホセがいた。アウレアは次の瞬間、胸の高鳴りと一抹の不安を同時に覚えた。
 二人はここひと月以上会っていないが、オンライン通話をしていた。それでもパジャマを着たホセは、アウレアの記憶にあるよりやつれて見えた。
 ホセとアウレアは向かい合ってパイプ椅子に座ったが、二人の間は透明の頑丈なガラスで仕切られていた。まるで拘置所などで面会する時のように。
「久しぶりね、ホセ」
「ああ……君は元気そうだな、アウレア」
 ホセの目の前に、黒いワンピースを身に纏ったアウレア。やや開いた襟元、剥き出しの腕、小麦色のなんとも健康的な肌。同じ部屋にいるのに触れられない、妙な焦燥感を覚える。
 ぎこちない沈黙を挟みながらも二人はポツポツと話しはじめ、そのうち元の二人のやりとりに戻っていった。

「付き合ってもうすぐ二年になるけど、俺たちが出会ったのはそれよりもう少し前だ。初めて君に会った日のこと、今でも覚えてるよ」
「私も覚えてるわ。大勢の中にいたのに、あなたの姿だけくっきり見えたみたいだった」
「君のお父さん、最初は俺たちが付き合うのを反対してたよな」
「あなたが経験豊富そうに見えたからじゃないかしら」
 別にそうでもない。いや、経験はそれなりにあるが、心を許したのはアウレアが初めてだ。
「付き合いたての頃かな、あれは。桟橋でソフトクリームを食べてたら、君が夢中でおしゃべりするうちにクリームが溶けて……」
 するとホセが、ポケットから出したハンカチでアウレアの指を拭ったのだった。その時アウレアは、初対面の時とはまた違った印象をホセに抱いた。
「観覧車に乗ったこと、覚えてる? 風の強い日で、笑っちゃ悪いけど君は怖がってたな」
 ホセはアウレアをからかうような口調でいった。
「それは、あなたがゴンドラを揺すったからじゃない」
 ホセが少し揺らしただけで、ゴンドラは風に煽られて大きくグラついた。それでアウレアは、ホセにしがみついたのだった。

 思い出しては赤面したり、胸が温かくなったり。ふいに、今は束の間の面会時間であることが頭をよぎり、アウレアは顔を曇らせた。
「思い出だけじゃなくてさ、また二人でどこか行こうよ。いつでも行けるよ。俺が退院するか、今の状態が落ち着くかして……」
「でも、いつになるか……」
 そこでアウレアは言葉を切った。二人を隔てているのはペラペラのアクリル板ではなく、強固で透明なガラス一枚。ガラス一枚といっても、とても硬い。それにアウレアには、何よりホセが遠く感じた。
 今のホセと私は、水中トンネルの内側にいる人間とその外を泳ぐ魚みたいなもの。お互いの姿は見えるのに、世界が違うみたい。
 アウレアの目が潤んだ。それに気づいたホセは躊躇うことなくマスクを口元から外し、アウレアに微笑みかけた。
「ホセ……」
「アウレア……」
 二人、どちらからでもなくガラスに手を伸ばした。透明なガラスを隔てて、お互いの手がぴったり重なる。ホセが硬いガラスに触れる指にグッと力を込めると、アウレアもほっそりした指先でガラスを押すように、ありったけの力を込めた。
 ここからの数秒、数十秒、一分。二人にとっては、永遠にも感じられたに違いない。

「そろそろ時間です」
 中年の女性看護師が、きっぱりした口調でホセに告げた。白い壁に掛けられた時計の秒針が、面会時間の終わりを無情に告げていた。先にアウレアが、ガラスからスッと手を離した。
 まだガラスに触れているホセの指、俯くアウレア。今度はホセが涙を堪えようと、唇をギュッと噛み締めるのだった。
 マスクとフェイスガードでほとんど表情の見えない看護師は、背筋を伸ばして面会室の出口付近に立っていた。もう少し一緒にいさせてやりたいけど、規則だし仕方ない。それでも看護師は、ホセにそれ以上声をかけなかった。
 やがてホセは顎の下に下がっていたマスクを掛け直すと椅子からゆっくり立ち上がり、座ったままのアウレアに一度頷いてみせ、それから面会室を後にしたーー。